あの日から、きょうで70年になる。徳島市におびただしい数の焼夷弾が降り注ぎ、市街地が焼け野原となった徳島大空襲である。
 
 日中戦争から太平洋戦争へと拡大した戦火は、戦場だけではなく、一般の国民が暮らす都市にまで及び、多くの人の命を奪った。
 
 節目の日に当たり、犠牲者の冥福を祈るとともに、その惨禍を忘れることなく、二度と戦争をしないという誓いを新たにしたい。
 
 米軍の「作戦任務報告書」によると、大空襲が始まったのは1945年7月4日の午前1時24分のことだ。グアム島を飛び立ったB29爆撃機129機が2時間近くにわたり、工場や民家、市民らの上に焼夷弾を投下した。
 
 これにより約千人が亡くなり、約2千人が負傷したとされる。市街地は約60%が灰と化し、11万人余りの市民のうち約7万人が焼け出された。
 
 日本側の公文書では、当時の徳島地方裁判所の検事正が司法大臣に宛てた報告書が昨年夏、国立公文書館(東京)で確認されている。
 
 それによると、空襲から1週間後の死者を734人、重軽傷者675人、行方不明者121人、被災者は7万1703人としている。これまでの推計とほぼ一致しており、被害の大きさがあらためて浮き彫りになったといえよう。
 
 ただ、大空襲を直接知る人は年を追って少なくなっているのが実情だ。その記憶と記録を次の世代にどう伝えていくのか。私たちに突き付けられた課題はますます重くなっている。
 
 そうした中、風化させまいとする催しが各地で行われているのは心強い。これからも地道に、長く続けてもらいたいものである。
 
 一つは、徳島城博物館で開かれている飯原一夫さんの絵画展「追憶の昭和徳島 戦争の惨禍と戦後復興」だ。ひときわ目立つ「徳島大空襲」は炎で赤く染まった空の下、逃げ惑う人々が描かれている。
 
 県立博物館の部門展示「戦争の時代と徳島」では、焼け野原になった市街地の写真や焼夷弾の破片などの資料が、空襲の恐ろしさを伝える。若い世代の試みもある。市立木工会館の「徳島大空襲版画展」には、中学校美術講師と佐那河内中学3年生が制作した木版画が並んでいる。
 
 きょうは反核・憲法フォーラム徳島の「徳島大空襲を語るつどい」が、とくぎんトモニプラザで開かれる。
 
 戦争の写真や資料に触れ、体験した人の話に耳を傾けるのはつらいものだが、避けて通ってはならないことである。多くの犠牲の上に今の憲法が作られ、日本が平和国家として歩んできたことを胸に刻み、繰り返し確認することが大切だ。
 
 憲法違反の疑いが強く、戦後掲げてきた平和主義を変容させる安全保障関連法案を政府が成立させようとしている時だからこそ、その重要性は一層高まっている。