「生きていたら、うれしくて泣いたし、亡くなっていたら、悔しくて泣いた。その繰り返しだった」。兵庫県淡路市の米山正幸さん(50)が22年前を振り返る

 阪神大震災の震源となった野島断層を保存する北淡震災記念公園の副支配人。震災当時、消防団員として、全半壊が7割を超す旧北淡町富島地区で活動した

 発生したのは午前5時46分。昼ごろまでに、生き埋めになった300人を、消防団員と住民で全員助け出した。居場所を探し回る必要はなかった。「寝室はこの辺」「ここの人は朝早いから台所だ」。近くの人たちに言われてがれきをどければ、必ずそこにいた

 素早い救助は、毎日のおかずまで知る濃密な近所付き合いがあって初めて、可能になった。しかし、こうした関係も変わりつつある

 理由はさまざまあるが、区画整理事業で道路が広がったことも大きい。「震災前は救急車も入れない細い路地。嫌でも顔を合わせていた。今は玄関を出れば車で職場へ。どうしても人間関係は希薄になる」

 防災で最も大切なのは、自分の命は自分で守るという自助の意識、と米山さんは言う。その上で、隣近所で助け合って急場をしのぐ、共助の意識をどう育てていくか。災害発生直後は、行政も当てにはできない。問われているのは地域の力、今の時代に合った地域の在り方である。