激震の発生は、金曜の午後2時46分だった。職場や学校で遭遇した人が多く、その数十分から1時間後にかけて、大津波が襲った。

 「なぜ、命を失ったのか」。東日本大震災から間もなく7年となる今も、多くの遺族が原因の解明を求め、企業や行政など、管理者側の責任を追及している。

 大震災の最大の教訓は「激震と津波の間」にある。責任ある立場の人がこの時間に何をし、何をしなかったか。取り返しのつかない重い判断となる。

 死者1万5895人、行方不明2539人(1日時点)。大震災以降、「想定外の津波だった」という言い訳は通用しなくなった。

 南海トラフ巨大地震は、必ず来る。大震災7年を機に、改めて心に刻みたい。最優先すべきは、かけがえのない命だ。「その時」のための身構えを緩めてはならない。

 東日本大震災で、従業員に対する企業の安全管理責任が問われた訴訟がある。行員や派遣スタッフ12人が犠牲となった七十七銀行女川支店の悲劇だ。

 支店は海から100メートルの低い市街地にあった。揺れの後、支店長の指示で高さ10メートルの支店ビルの屋上に上がったが、20メートルの津波にのまれた。間近に指定避難場所だった高台があり、多くの人が助かっていた。

 なぜ、高台への避難ではなく、逃げ場のない屋上だったのか。遺族は納得できず、銀行側の対応にも不信感を募らせた。

 長男の健太さん=当時(25)=を失った宮城県大崎市の田村孝行さん(57)弘美さん(55)夫妻ら従業員3人の遺族が、銀行を相手に提訴した。

 裁判所は「屋上を越える波を具体的に予見することはできなかった」と銀行側の主張を認めた。疑問は解けないまま、敗訴が確定した。

 夫妻は今も、企業の防災意識の向上を訴えて、被災現場で「語り部」活動を続けている。日曜を中心に年70日を数える。全国の大災害や大事故の遺族と交流を深め、発信の場を広げている。

 震災後、大企業を中心に事業継続計画(BCP)作成の動きが加速した。危機に直面した時に、事業を続けるためのマニュアルだ。

 田村さんは「経済性優先でなく、人命優先の計画であってほしい」と指摘する。「安全確保と被災者支援の両面を兼ね備えないと役立たないのではないか」とも。

 危機対応は報道機関も同様である。大災害などに見舞われた時ほど、報道の社会的な使命は高まる。それを果たす努力を怠ってはいけない。

 だが、取材活動中に津波にのまれた福島民友新聞の記者=当時(24)=の犠牲を忘れてはならない。

 自然の力を恐れ、安全確保に努める。それが仕事に取り組むための絶対条件だ。