太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月から8月15日の終戦までの間、徳島大空襲(7月4日)以外に徳島県内各地であった空襲により、少なくとも15カ所で人的被害が発生し、合計で死者は217人、負傷者は227人に上ったことが、県警察史や徳島新聞の取材などで分かった。ほとんどの空襲は史料や写真といった記録が乏しく、地元でも知る人は少ない。終戦から72年がたち、体験者は高齢化しており、記憶の継承が課題となっている。

 約千人の死者を出した徳島大空襲に次いで被害が大きいのは、45年6月22日の徳島市秋田町一帯への空襲。米軍機が秋田町、伊月町、鷹匠町などに爆弾5発を投下し、死者123人、負傷者101人、家屋全壊69戸の被害が出たとされている。

 4日後の26日には、徳島市下助任町などに爆弾が数発落とされ、うち1発が助任国民学校(現助任小学校)を直撃。一帯の被害は死者36人(国民学校教員2人含む)、負傷者50人、家屋全半壊146戸とされている。

 7月30日には阿南市那賀川町の那賀川鉄橋を走っていた列車を米軍機が銃撃した。乗客がいる車内に機銃弾が撃ち込まれ、死者は約30人、負傷者は約50人。鉄橋には今も弾痕が残っている。

 県警察史や各市町村史によると、死傷者や家屋損壊といった空襲被害は小松島市、吉野川市、海陽町、松茂町などでも確認されている。しかし、負傷者の数や爆弾の投下場所など詳細な情報は少ない。

 これら比較的小規模な空襲の多くは「都市部を爆撃した米軍機が残った爆弾を帰りに投下した」(阿南市の郷土史家、湯浅良幸さん)とみられている。

 明確な関連を示す史料はないが、総務省のホームページや各地の市民団体などによると、秋田町空襲があった6月22日には兵庫県姫路市の川西航空機工場の空襲(死者約340人)と広島県呉市の呉海軍工廠(こうしょう)の空襲(死傷者400人以上)があった。助任の空襲があった同26日には、大阪市一帯の大阪大空襲(5回目)や京都市、奈良市への空襲が確認されている。

 徳島県立博物館の長谷川賢二学芸員(54)は「徳島大空襲などの都市空襲は米国の軍事記録として正式に残っているが、被害規模の小さな地方の記録を探すのは困難で、個人の記憶や記録が頼りになる。被害を語り継いでいくことが重要だ」と訴えている。