島袋さん(右)から託されて義援金のお礼を伝えに川内北小を訪れる中山さん(左)と夫の勲さん=3月21日、沖縄県那覇市(琉球新報提供)

川内北国民学校から那覇市への義援金が新聞社に届いたことを報じる1944年12月25日付の沖縄新報の記事

 1944年10月10日に空襲に遭った那覇市に、徳島市川内町の川内北国民学校(現・川内北小)が義援金を届けていた―。こうした史実を約20年前に知り、お礼をしたいと願っていた那覇市泊の島袋文雄さん(87)に代わり、同市在住で美馬市出身の中山公子さん(74)が20日に同校を訪れ、73年ぶりに感謝の気持ちを伝える。

 沖縄では「10・10空襲」とも呼ばれる那覇空襲は死者225人、全市域の90%が焼失する大被害をもたらした。空襲から2カ月半後の地元紙「沖縄新報」の44年12月25日付紙面は、川内北国民学校から市に宛てた百円の義援金が届けられたことと、添えられた手紙の内容を伝えている。

 手紙には、校内放送で空襲を知った児童が校舎のない学校や住む家がない人々を想像し「全くじっとしていられない気持ちになった」などとつづられている。義援金は「縄をなったり、カマスを織ったり」して捻出したという。

 島袋さんは元小学校教諭。退職後に沖縄の教育史編さんに携わる中で、約20年前に徳島から義援金が送られたことを知った。「大変感激した。ぜひお礼を言わないといけないと思った」と振り返る。

 当時から那覇市長に同校へのお礼を呼び掛けるなどしたが実現に至らず、長年、徳島の人たちに感謝を伝えたいとの思いを抱いてきたという。

 ところが今年1月、那覇市泊地区の住民が集まっておしゃべりする「泊ゆんたく会」に招かれ、沖縄の教育史について講演したところ、出席者に中山さんがいた。

 島袋さんは高齢で長距離移動が難しいため、中山さんに「感謝を伝えてほしい」と依頼。中山さんは、宮古島市出身の夫・勲さん(79)が母校徳島大の同級生会に出席するのに合わせて帰郷を予定していたため、依頼を快諾。20日に同校を訪れることになった。同校では、教頭ら管理職が応対する予定。

 沖縄に暮らして約40年の中山さんは「みんな貧しかった時代、被災地を思って義援金を送ったことを徳島出身者として誇りに思う。島袋さんの感謝の気持ちを伝えたい」と話している。