捕虜の楽器を元に創業された仁木文化堂を経営する(左から)仁木敬さん、智義さん、陽子さん親子=徳島市東大工町2

◇音楽◇店の原点捕虜の楽器

 セピア色に染まった大正時代の新聞に、その店名はあった。1921年12月、徳島市通町にオープンした洋楽器店「仁木文化堂」。当時の紙面には、クリスマスの贈り物に楽器の購入を呼び掛ける店の広告が掲載されている。

 「25年ほど前、たんすの奥で眠っていたという新聞を知人からもらったんです。戦前の店の物は全て徳島大空襲で焼けてしまったので、本当にうれしかった」

 創業者仁木朋七さん(92年、91歳で死去)の孫で、東新町、東大工町と店舗を移して一家で営業を続ける仁木陽子さん(65)は、古びたインクの文字をそっと指先でなぞる。

 まだ西洋音楽になじみの薄かった時代、弱冠20歳だった朋七青年は、なぜ洋楽器店を始めようと思ったのか。

 「それは祖父が、第1次大戦時に鳴門市にあった板東俘虜収容所のドイツ兵と交流していたことが縁でした」と陽子さん。当時、店頭に並んでいたのは、帰国する捕虜たちから買い取った楽器だった。

 板東収容所の開設は100年前の17年4月。松江豊寿所長の寛大な運営方針の下、約千人のドイツ兵捕虜は多彩な文化活動やスポーツに打ち込み、製パンや食肉加工などの技術を地域住民に伝えた。

 こうした自由な気風の中、ヘルマン・ハンゼン一等軍楽兵曹が指揮する「徳島オーケストラ」は18年6月、屈指の難曲であるベートーベン「第九交響曲」に挑み、アジア初演という歴史を刻んだ。

 一方、「エンゲル・オーケストラ」を率いたプロバイオリン奏者のパウル・エンゲル二等海兵は、収容所の外でも音楽を指導した。教え子たちは好奇心や行動力にあふれた徳島市の若者が中心で、その一人が朋七さんだった。

 「祖父はバイオリンに魅せられ、エンゲルから楽器の構造についても熱心に学んだそうです。その経験が洋楽器店の開業に結びついたのでしょう」。陽子さんは、若き日の祖父の姿に思いをはせる。

 朋七さんはヨーロッパで修業してバイオリン職人になることを夢見ていたが、仕事の忙しさや資金面から断念した。徳島大空襲では焼夷弾の火の手から家族を守った際に大やけどを負い、戦後は体調不良と闘いながらの生活だった。それでも音楽への情熱を捨てることなく、音楽教室も開いて徳島の文化のともしびとなった。

 ドイツ兵との関わりにちなみ、店ではドイツを代表する老舗メーカー、カール・ヘフナー社のバイオリンを扱った。90年ごろ、バイオリン約30丁を納品する大口の取引があり、陽子さんの夫の敬さん(66)は同社の工場長に仁木文化堂の歴史について語った。後日、ドイツからクリスチャン・ベンカー社長が直々に店を訪ねた。残念ながら朋七さんは病床に伏していたが、社長は敬さん夫妻に対し、ドイツとの深い縁への感謝の気持ちを伝えたという。

 現在、店での楽器の修理は、夫妻の長男智義さん(42)が担当する。2代続けて婿養子を迎えた仁木家の久々の男児として、朋七さんから「将来は店を頼む」と言われて育った。曽祖父との約束を果たし、さまざまな楽器の修理技術も習得。昨年2月には、ヤマハ系列の管楽器修理のコンテストで日本一に輝いたほどの腕前だ。

 智義さんはバイオリンを手に語る。「エンゲルが曽祖父に伝え、受け継いできた音楽と楽器への思い。その気持ちを大切にしていきたい」

 「奇跡の収容所」の開設から1世紀。捕虜たちが残した遺産は、今も徳島の地にしっかりと根差している。
                   ◇
 板東収容所からもたらされた文化や技術について、100年後の現在と結びつけながら紹介する。