徳島エンゲル楽団の立木さん(前列右端)田處さん(同左から2人目)沖野さん(後列左から2人目)仁木さん(同左から4人目)=立木写真舘(同舘提供)

◇エンゲル楽団(上)◇音楽を通し心交わる


 将来も語り継がれるだろう写真がある。1人の外国人男性を囲む青年たち。バイオリンやチェロを手にし、傍らには管楽器や打楽器も置かれている。

 「このチェロを構えているのが、曽祖父ですね」。徳島市仲之町にある「立木写真舘」常務、立木さとみさん(56)が椅子に座った右端の男性を指す。

 立木真一さん(1957年死去)。明治期から続く老舗写真館の2代目で、NHKドラマ「なっちゃんの写真館」の主人公のモデルとなった香都子さんの父でもある。

 中央の人物は第1次大戦時に板東俘虜収容所にいたパウル・エンゲル二等海兵。そして、真一さんら周囲の青年たちが、日本の市民楽団の草分けとなった「徳島エンゲル楽団(エンゲル音楽団)」のメンバーだ。

 「撮影場所は当時、紺屋町にあったうちの写真館。ここにピアノがあり、楽団の練習場でした」とさとみさん。はっきりした時期は不明だが、エンゲルは週2回、板東から徳島市に出向いて音楽を教えていた。

 なぜ実現したのか。楽団員の一人、田處栄治さん(91年死去)の孫娘で、籠屋町で洋服店「喜久屋」を営む田處美千代さん(67)と夫博昭さん(68)は、こう伝え聞いている。

 「捕虜たちが音楽をしていることを知り、友人の立木さんらと徳島市から板東まで演奏を聴きに自転車で通ったそうです。松江豊寿所長に音楽を習いたいと申し出たら、エンゲルに習うのを認められたとのことでした」

 栄治さんは徳島師範学校で音楽を専攻しており、西洋音楽を学びたい思いが強かった。 

 一方、立木真一さんは日露戦争時、香川県多度津町の収容所にいたロシア兵捕虜の写真を撮影。米国への留学経験もあり、広い見識を持っていた。

 「曽祖父は善通寺市にあった写真館の分館に自転車で通っていたので、板東までの距離は平気だったかもしれませんね」。さとみさんは笑顔でそう付け加える。

 メンバーにはほかに、両国橋で茶販売「沖野香露園」を創業した沖野正さん(46年死去)もいた。後に県内初のダンスホールを開設した一人で、エンゲルに教えを請うた顔触れは進取性に富んだ青年がそろっていた。

 当初は収容所近くにある四国霊場1番札所・霊山寺前の遍路宿が練習会場だった。しかし、集まるのに手間がかかるため、松江所長の計らいで出張教室が認められた。

 田處博昭さんは、栄治さんからこんなエピソードを聞いたことがある。当時、吉野川に架かっていたのは木造の橋。エンゲルは必ず橋の手前で送迎の車を降りて歩いて渡っていたという。「『エンゲルは慎重な人だった』と笑っていました」と振り返る。

 徳島に教室を移して以降、後に捕虜の楽器を元に洋楽器店を創業する仁木朋七さん(92年死去)も加わった。

 洋楽器がまだ珍しかった時代。若者たちはエンゲルと英語でコミュニケーションを取りながら、練習に打ち込んだ。栄治さんの述懐では、エンゲルも「このようなことが今の時代にできるのは貴重だ」と言って指導に力を注いだという。

 その頃撮られた写真が冒頭の1枚。そこには、敵国同士にもかかわらず、国境や人種を超えて結ばれた確かな絆があった。