堪能なドイツ語を生かし、板東収容所で松江所長を支えた高木副官(左)(鳴門市ドイツ館提供)

人道主義支えた副官

 この人がいなければ、松江豊寿は板東俘虜収容所で人道主義を貫くことができなかったかもしれない。香川県丸亀市出身の高木繁副官(1886〜1953年)。ドイツ語をはじめ、ロシア語、中国語など7カ国語を操り、ドイツ兵捕虜とのパイプ役として所長の松江を支えた。

 1914年12月、松江と共に徳島収容所に着任したときには中尉だったが、16年5月に大尉に昇進。17年4月に徳島、丸亀、松山の収容所が統合された板東でも14歳上の松江とコンビを組んだ。

 鳴門市ドイツ館元館長の田村一郎さん(83)によると、収容所新聞「ディ・バラッケ」に松江の名前が出てくるのは大きく4カ所だが、高木は10カ所も登場する。

 上限が決まっていた捕虜の郵便の回数に余裕を与えていたことや、音楽隊の伴奏に合わせて捕虜がリレー方式で薪を山から運び出す際、高木自らが大太鼓を受け持ったことなどが記されている。

 田村さんは「巧みなドイツ語と人柄によって捕虜たちと身近に接していたことがうかがえる」と話す。

 収容所のあらゆる申請や苦情の類いは高木の元に持ち込まれた。捕虜たちも高木を信頼していたことは、彼の事務室が「総合需要処理事務所」と呼ばれたことからも分かる。

 ドイツ館前館長の川上三郎さん(73)は、収容所内で印刷された「板東の我々の体操」の中にも、高木に関する興味深いエピソードが書かれていることを見つけた。

 その概要はこうだ。

 収容所体操クラブが18年8月11日、ドイツの「体操の父」と呼ばれるフリードリヒ・ヤーンの誕生日にちなんだ体操演技会を催した。午後7時にスタートし、終了したのは就寝時刻の同10時。本来、すぐに自室に戻らなければならないが、捕虜たちは別室で談笑を続けていたため、見回りの監視将校に見つかって処罰を受けた。

 この時、催しを許可した高木にも累が及んだ。日頃から捕虜に甘い高木の対応に不満があったのだろう。同僚の将校3人から「高木大尉はドイツ人ですな。そんなことでは職を追われますぞ」と非難された。

 この後、高木は当該捕虜2人を自室に呼び、かなりショックを受けた様子で「副官でいられなくなるかもしれない」と弱音を吐く。すると、捕虜は「そう神経質にならず、厚かましく臆せずやってくださいよ」と言い、さらに日本語で「捨てる神あれば、拾う神あり」と励ました。高木は意表を突かれ、机に伏して大笑いしたという。

 川上さんは「とても収容所側の人間と捕虜との会話とは思えず面白い。同時に、人道的な運営とされた収容所サイドにも、いろいろと摩擦があったようだ」と指摘する。

 それでも、板東収容所は20年1月に全ての捕虜が帰国するまで「模範収容所」であり続けた。バイオリンに親しみ、ダンスも好きだったという高木は、堪能なドイツ語を生かしてさまざまな問題解決に奔走したに違いない。

 しかし、その語学力が、後の高木の運命を決定付ける。第2次大戦時に特務機関で諜報戦に従事することを、板東で充実した日々を送っていた高木はまだ知らなかった。