横浜フリューゲルスのJリーグ開幕戦に出場した桂秀樹さん=岡山市の環太平洋大学

胸の文字が水色のフリューゲルスのユニホーム。開幕時から使用されたのは文字が赤色で貴重

 1993年5月16日、横浜フリューゲルス(当時)の一員として、桂秀樹さん(48)=徳島市出身、環太平洋大学サッカー部監督=は開幕戦のピッチに立った。身長160センチで当時「最も小柄なJリーガー」と言われ、攻撃的MFとして豊富な運動量と俊敏な動きでピッチを自在に駆け回り、柔らかなタッチのドリブルや正確なパスを武器に活躍した。創成期のJリーグとともに歩んだ桂さんが、プロになったきっかけやフリューゲルス、今後の抱負を語ってくれた。

―サッカー選手を意識したのは。

 高校生ぐらいのときから、昔のJSL(日本サッカーリーグ)に所属している企業チームのどこかに入ってサッカーを続けたいなと思っていました。大学2年ぐらいのときかな、プロリーグが始まるというのが新聞に大々的に載って、サッカーがプロ化するんだと思いました。タイミングがよかったですね。大学4年生のときに数チーム声を掛けていただいて、フリューゲルスに進みました。Jリーグ開幕の1年前で、高卒と大卒の選手はサテライトみたいな若手チームでやっていました。ブラジル人のフィジカルコーチもいて力もつき、プレーにも慣れて、開幕の5月に向けて調子が上がっていったのかなと思います。

―身長160センチで当時、最も小柄なJリーガーと言われていた。

 1番小さかったですね。93年の開幕節で対戦した清水に向島建(たつる)さん(身長161センチ)がいました。川崎フロンターレでも一緒にプレーしましたし、いまも選手のスカウティングに行くと会うんですけども、向島さんと並んでも小さかったですし。何年か後、佐川急便東京でプレーしていたときに宿泊先でスポーツ新聞に「柏レイソルで小さい選手がプロになる」という記事を見たんですよ、そこにJリーグで歴代の小さい選手が載っていて「桂秀樹」とか「向島建」とか。それが日本の女子高生の平均身長と比べられていましたね。

―サッカーを始めたのは。

 徳島の津田黒潮という少年団で始めました。小学校2年のとき、2歳上の兄の影響です。強いチームで、すごい選手がたくさんいて、その影響が大きかったです。実業団選手が小学校に来て初蹴りがあってと、身近に感じられながら育ったのは良かったと思います。中学校のときは周りがどんどん身体が大きくなるのに、自分は背が伸びず、選抜チームに選ばれても試合に出られなかった。高校は、同年代でトレセンに来ている子がみんな市高(徳島市立高校)に行くというので、中学3年になってから勉強も必死にやって。逢坂(利夫)先生(現・徳島県サッカー協会長)の下で、1年のときから試合に使ってもらい、全国選手権では連続出場記録を持っている徳島商業を、たまたま僕の得点で勝って初出場できました。3年生でも出られて、市高に進んでよかったです。

―小さな体で活躍。スピードあるドリブルやボールキープ、テクニックに優れていたがどうやって身に付けたのか。

 サッカーを始めると、すぐにのめり込んで、芝の庭もあったのでリフティングをしたり、家は海岸町だったので砂浜の松林があるところでドリブルしたり。両側にブロック塀がある道で、兄と壁パスをしながらの1対1もやりました。部屋の中でもタンスにボールを蹴っていましたね。大阪体育大学の後輩に会うと、「いつも桂さんに捕まって、1対1のディフェンスをさせられていた」と言われるんですが、僕はあまり記憶にないんですよね(笑)。遊びの延長のように、好きでやっていたから身についた。幼稚園のときから鉄棒でぐるぐる回っていたそうですし、体を思い通りに動かすことができていました。運動神経はよかったのでしょうね。

―プロサッカー選手になったと実感したはいつ。

 最初は決まった練習場もなくて、点々としていました。戸塚にグラウンドができて拠点となって、ファンの方にサインをしたり、写真を撮ったりして実感するようになりましたね。特に感じたのは、年末の契約更改。93年にJリーグの試合を1年通してやったなかで、当時は代理人もいなくて、どうしていいか分からない。どうなるのかとも分からなかったです。これだけ人気があって、プロスポーツになったんだし、ヴェルディのカズ選手(三浦知良選手=現横浜FC)は1億円とか報道されていて、1億円プレーヤーがいて、どうなんだろうと。契約に臨んでみると、それほどもでなく、がっくしというのもありました。それでも、もらっているほうだったとは思いますけども。いまのように走行距離のようなさまざまなデータがなく、試合出場数や出場時間ぐらいしか材料がなくて、こちらも交渉ネタがないですし、査定する側も大変だったと思います。

―フリューゲルスの特長や印象に残っている選手は

 当時はオーソドックスなチームが多く、フリューゲルスが、ゾーンプレスという特長を持ったチームでした。同期には、徳島ヴォルティスのGKコーチの中河(昌彦)。DF渡辺一平とか、高卒では前園(真聖)とか社会人からの人もいましたね。運転免許を取得しようとしていた関係で、寮に入るのが遅くて、横浜に引っ越した初日は寮の部屋が空いてなくて、前園の部屋を借りていました。静岡学園から入った坂本義行、渡辺一平は寮に引っ越してきたときに、2人が出てきて迎え入れてくれたり、日本代表の山口素弘さんも一緒のマンションに住むことになったりと、いろいろあってお世話になりました。95年には楢崎(正剛)や淡路島出身の波戸(康広)、いまヴィッセル神戸で監督をやっている吉田(孝行)、清水エスパルスのコーチの久保山(由清)と、有望な若手がたくさんいました。

―98年シーズン限りでフリューゲルスは消滅した。

 聞いた時は驚きました。すでに、川崎フロンターレでやっていましたが、大変なことになってるなと。署名活動をしたりとか、本当にこんなことがあるんだろうかという感じでした。一緒に練習や試合をした選手、入団当初から頑張っていた選手がたくさんいましたので、これからどうなるんだろう、どうするんだろうという気持ちでした。

―川崎フロンターレでは97年からプレーした。

 聞いた話によると、富士通(フロンターレの前身)サッカー部の監督を城福(浩)さん(現J1サンフレッチェ広島監督)がされていて、コーチが大体大の1つ上の先輩でした。城福さんに誘ってもらったと後から聞いたんですけども、僕が入団する頃には、監督を辞めてしまっていて、同じ徳島出身で誘っていただいて、指導してほしかったですけども。縁がなかったのかな、残念でした。広島の監督になられて、今年1度練習試合でお会いしました。

―今では、故郷にJリーグのクラブ・徳島ヴォルティスもある。

 25年前は考えられなかったが、いまでは当たり前に感じている。いつもヴォルティスのことは気になる存在ではありますし、成績だったり、試合内容だったり、スペイン人監督が来ていいサッカーをしていますし、ポカリスエットスタジアムはどれぐらいお客さんが入っているのか気になります。もうちょっと盛り上がってくれたらなと感じています。そんなに大きくなくても、基準をギリギリ満たすぐらいのサッカー専用スタジアムがいい場所にあればな、と考えることもあります。

―Jリーグが25周年。日本で感じる変化は。

 サッカー協会が普及からしっかりやり始めて、サッカーをする子どもたちも増えてきました。海外でプレーする日本人も増えてきましたし、なりたい職業に「サッカー選手」というのが1位になったり、上位に入っていたりします。少しずつですけども発展はしてきていると思います。サッカー文化としては、まだ定着はしていないですね。週末のスタジアムでサッカー観戦みたいな非日常空間を味わうことだったり、平日も日常のなかでサッカーが話題になったりするようなことにもっとなっていたらいいなと思います。

―大学サッカーで指導者となった。今後の目標は

 開幕戦で対戦した清水の澤登(正朗)は同年代で、大学のときから、バルセロナ五輪を目指す代表候補なんかで一緒になったこともありました。今は常葉大学(静岡)の監督をやっているので、全国大会で会ったりします。当時のことを話すということはないですけれど、Jリーグで活躍した同年代の選手が次世代の育成に取り組んでいます。

 選手が育つには、自分で考えて工夫をできるかどうかが大事。1つ言われて1つするのではなく、2つ、3つ、それ以上をやれるようになってほしい。ただサッカーには考えても分からないことも多いので、ヒントやアドバイスを与えることもありますが、何とか身に付けてほしいと思います。IPU(環太平洋大学)サッカー部を全国大会でベスト8に勝ち上がれるようなチームにしていきたい。もちろん、Jリーガー育てたいですし、地域にサッカーを通して貢献したいと思います。