「努力すれば運命は変えられる」と話す江上さん=福岡県久留米市

早稲田実業の荒木投手(左)から先制本塁打を打ちガッツポーズする江上選手=1982年8月、甲子園球場

 1982年夏の甲子園。「攻めダルマ」の異名を取った故蔦文也監督率いる池田高校が深紅の優勝旗を初めて徳島に持ち帰った。金属バットの快音を切れ目なく響かせる「やまびこ打線」は、高校野球の常識を覆した。その一翼を担った江上光治さん(53)=福岡県久留米市、会社員=は2年生ながら4割の高打率をマークした。

 池田が頂点へ駆け上がるきっかけになったのが、準々決勝の早稲田実業(東京)戦で江上さんのバットから放たれた先制2点本塁打だった。

 一回裏、大会屈指の荒木大輔投手(元ヤクルトなど)の決め球だったカーブを右翼席にはじき飛ばすとチームは勢いづき、14—2で圧勝した。

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 野球の才能に恵まれていたわけではない。本格的に始めた鴨島第一中ではリーダーシップと寛容な性格を監督に見込まれ主将に抜てきされた。自らに厳しい練習を課し、中学最後の県大会と四国大会で初優勝。全国大会で1勝し、高校でも野球を続けようと決めた。

 どの高校からも声は掛からなかったが「有名な池田でどうしても野球がしたい」との思いを強くした。蔦監督はチームメート2人をスカウト。その際に「『おまけ』で入れてあげてもいい」と言われ、両親を説得して入部にこぎ着けた。

 高校では、寮で毎晩素振りをする先輩の背中を追うようにスイングを続け、強打の礎を築いた。主将となり83年に夏春連覇を達成すると、県内外からファンや報道陣がグラウンドに押し寄せた。スターのようにもてはやされるレギュラー選手。控え選手との間に溝が生まれた。「溝を埋めることができなかった。キャプテン失格と言われても仕方がない」。甲子園3連覇に挑んだ最後の夏は準決勝で敗退した。

 プロ野球への憧れもあったが、蔦監督から「プロで通用するような素材ではない」と反対され早稲田大に進んだ。大学では甲子園で本塁打を打った強打者のイメージが先行して苦労した。投票で主将に選ばれたが仲間をリードできず、リーグ優勝には届かなかった。

 苦難を糧に野球を極めようと、卒業後は社会人野球の強豪の日本生命へ。腕力や感覚に頼っていたプレーが理論に基づいた動きに変わり、満足のいく結果を残した。現役を5年間続けた後、マネジャーなどの裏方を7年間務めた。34歳でユニホームを脱ぎ、営業マンになった。

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 高校でたまたま野球がうまくいき、憧れていた都会で住み続けられたが、父親の体調が悪化したため異動願を出し、42歳で徳島に赴任。「高校時代に多くの県民に応援してもらった恩返しがしたい」と、体験談をテーマにした講演活動をボランティアで始め、7年間で約230回に達した。

 2016年に久留米支社に異動。休日になると地元のグラウンドに足を運ぶ。「一生懸命努力すれば、運命は変えられる」。かつての自分のように甲子園を目指す球児と一緒に白球を追い掛けている。

<大会メモ>1982年夏

 池田が圧倒的な攻撃力で県勢初の頂点に立った。広島商との決勝では畠山準投手(元横浜)の本塁打など、大会新記録の7連続安打を放って12—2で圧倒。池田が全6試合でマークした7本塁打、85安打は大会新記録となった。水野雄仁投手(元巨人)がエースとなった83年春は、決勝で横浜商(神奈川)を3—0で下し、史上4校目の夏春連覇を達成。同年夏は優勝したPL学園(大阪)に準決勝で0—7で敗れ、史上初の3季連続優勝に一歩届かなかった。

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 全国高校野球選手権大会は今夏、100回の節目を迎える。徳島県から出場した元球児に聖地・甲子園での思い出を聞きながら、その後の歩みをたどった。