特集「第九フラッシュモブ 鳴門初演100年をPR」

「第九」への思いを聞く

東京アカデミック管弦楽団(オーボエ奏者)・七澤英貴さん

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 まだまだ奥が深い曲

1998年、神戸淡路鳴門自動車道の全通を記念し、小澤征爾さんが指揮をした鳴門市での第九演奏会に、新日本フィルハーモニー交響楽団の一員として参加した。そのとき板東で第九がアジア初演された歴史を知った。

ドイツのオーケストラに4年間在籍したが、その4年間でベートーベンの交響曲は、8番までは全部やったが、9番だけはやらなかった。それほど特別な曲なのだと思う。

板東俘虜収容所の松江豊寿所長は捕虜に対し、祖国のために戦ったのだからと、広い度量で接した。国境を越え、人を認め、人類が一つになる、地球が一つになる―。板東の初演の話は、第九そのものと重なる。第九演奏会を年以上にわたり、継続してきた鳴門の人の心意気にも敬意を表したい。

人間愛や、人の優しさということを第九には感じる。また演奏していて、第九には音楽的な深さ、難しさもある。例えば、遅いテンポの第3楽章は、指揮者によって自然に音を引き出されるが、そのときに「あっ、こういう音楽だったんだ」と気づかされる。まだまだ奥は深い。

音楽に限らず、全ての音に、人間も、生き物も何かを感じる。危険を感じる音、楽しくなる音、嫌な音、感動する音。この音を人間が音楽にした。音を原点に生まれた音楽には、人間を動かす力、人の心を動かす力がある。

室内合唱団「日唱」(メゾソプラノ)・越智純子さん

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喜びの爆発 歌で表現

合唱の観点から見て、第九の高い人気にはいくつかの要素がある。誰もが知る「歓喜の歌」の親しみやすいメロディ。高らかに人類愛をうたいあげたシラーの素晴らしい歌詞。西洋文化の結晶を、力強い大合唱にのせて、合唱初心者も存分に声を出して体感することができる。実は難しい旋律にドイツ語という課題もあるが、一度克服すれば世界中で歌えるというのも魅力だ。

全体の構成も感動的だ。合唱団は第1楽章からオーケストラの後ろに座り、聴衆と同じように聴いている。いよいよ第4楽章、不協和音でファンファーレが鳴り響く。「来るぞ、自分たちの出番だ。」合唱団全員の気持ちが一つになる。

第4楽章冒頭。第1楽章の片りんが流れるが、低弦に「こんな音じゃない」と否定される。第2楽章、第3楽章の片りんも、「私が求めているのはこんな音でもないんだ」と否定。そこで、ようやく、あの歓喜の歌のメロディが流れてくる。ベートーベンが歓喜の旋律を生み出した過程を追体験するようにして、感情が高まり、喜びがあふれ出す。合唱団は一斉に立ち上がり、オーケストラとも一体化する。

バリトンが「おお友よ、この調べではない。もっと喜びに満ちた調べを歌い始めよう」と呼び掛け、全員で唱和する。私には、ソロの部分がまるでベートーベンの呼び掛けのように聴こえる。第九の合唱は、こういった内容を理解するとより楽しい。苦難を乗り越え、共に登り詰めていく喜びを実感できると思う。交響曲に合唱を入れるというのは斬新なことだっただろうが、真の喜びは言葉とともに爆発するのだろう。

人の声は感情が伝わりやすい。合唱の織りなすハーモニーは、それぞれの表す喜びや悲しみが、時に幾重にも増幅し、時に衝突し合いながら、独特の厚みを音楽に持たせる。私の所属する室内合唱団「日唱」では、この厚みあるハーモニーを大切にしている。これが合唱の醍醐味だと思う。

音楽評論家・萩谷由喜子さん

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 戦時下で圧倒的な力

交響曲の父といわれるハイドンは宮廷楽団の楽長を務め、新作を数多く作り続ける必要があった。それを楽員に教え込んで、演奏させるという大変な激務。このため、ひな形を作って、細部を変えていくという手法をとった。そして少なくとも104曲の交響曲を作った。

ハイドンの次に現れたのがモーツァルトとベートーベン。モーツァルトが残した交響曲は41以上、そしてベートーベンは9。数は少なくなるが、規模も大きくなるし、ハイドンが作った交響曲の土台をもとに、質・量ともに完成させる歩みだった。

ベートーベンは、交響曲にトロンボーンを定着させたり、コントラバスだけのパートを作ったり、いろいろ器楽的な改良を行った。そして9曲目の交響曲で、メッセージをより強く発信するため、交響曲に当時ほとんど例のない声楽を加えた。第九はそういう点で画期的な音楽作品だった。

板東初演の史実は、音楽雑誌「モーストリー・クラシック」(産経新聞社)の8月号で執筆した「戦争と音楽家」をテーマにした記事の中でも紹介した。この歴史は多くの人に知ってほしい。松江豊寿所長の処遇のおかげで音楽活動が盛んに行われ、さらにはオーケストラを結成できるほどの音楽力が捕虜たちにあったという事実にも驚かされる。

戦争によって、板東の物語は生まれた。戦争は絶対悪で、決して美化してはいけない。しかし、そういう極限の中だからこそ、音楽の圧倒的な力も実感させられる。戦争の副産物として第九の板東初演が実現したことは皮肉だが、やはり、第九のメッセージのように、私たちは戦争のない世の中、温かい人類愛に満ちた社会を目指さなければならない。

<板東俘虜収容所とは>

1914年7月に第1次世界大戦が勃発。勢力圏拡大をもくろむ日本は8月、ドイツに宣戦布告し、ドイツ軍の拠点、中国・青島を包囲した。3カ月後、ドイツ軍は降伏した。

約4700人のドイツ兵捕虜は東京、徳島、福岡など12カ所の収容所に入れられた。その後、鳴門市大麻町の板東、習志野、名古屋などの6カ所に統合され、板東では1917年4月から2年10カ月にわたり、千人を超す捕虜が過ごした。

板東俘虜収容所は小さな町のようだった。兵舎8棟や将校棟、倉庫棟が並び、捕虜たちが働く場として80軒余りの商店街、レストラン、印刷所、図書館、音楽堂、科学実験室などの施設もあった。

学習、講演、スポーツ、音楽、演劇などの文化活動も盛んで、音楽活動では管弦楽団、吹奏楽団、合唱団が存在し、捕虜の1割以上が関わっていた。第九を演奏したのはヘルマン・ハンゼン一等軍楽兵曹が率いる徳島オーケストラ(45人)。合唱は独唱4人を含めた84人が参加した。

ハンゼンは音楽学校で学んだ経歴を持ち、相当な力量を持っていたとされる。第九の初演時も、女声パートをハンゼンが書き直し、男性が歌った。

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