民主党政権で内閣官房長官などを歴任した仙谷由人氏が死去した。72歳だった。

 徳島県選出で衆院議員を6期務め、結党時から旧民主党に参画。訴え続けてきたのは政権交代であり、新政権の樹立だった。それを果たす原動力となった。

 政権の屋台骨を支え、2014年11月に引退してからも政界のご意見番として存在感を示した。

 とりわけ印象深いのは、菅直人内閣の要である官房長官時代だ。10年6月、内定の際に、こう語っていた。「エキサイティングな局面だ。前向きに日本の未来をつくる思いでやっていきたい」

 弁護士出身。論客として党内外から一目置かれてきた仙谷氏らしい抱負である。

 本県選出の官房長官就任は自民党の故後藤田正晴氏以来だっただけに、県民の期待も大きかった。しかも仙谷氏は、その後藤田氏を目標とし、周辺にも「首相より官房長官の方が重要だ。後藤田さんのようになりたい」と語っていたという。

 経済・財政、社会保障と幅広い分野に精通し、対中国、ロシア外交まで取り仕切る。「陰の首相」と呼ばれたこともあった。

 民主党のマニフェスト(政権公約)「コンクリートから人へ」を考案したのは、仙谷氏だった。消費税発言により参院選で敗北した菅首相が、「ねじれ国会」打開を目指して唱えた「熟議の民主主義」もまた仙谷氏の受け売りだったといわれる。

 豊富なアイデアを駆使し、問題解決への柔軟な対応力は与野党から評価され、各省庁の官僚や野党とのパイプもあった。そこにも力量を見る。

 残念なのは、民主党政権が迷走する中、その実力が十分発揮できなかったことである。10年9月に起きた尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件を巡って、中国人船長を処分保留で釈放するなどの問題もあり、政府の対応が批判され、参院で問責決議を受けた。

 仙谷氏と言えば、歯に衣着せぬ「仙谷節」が思い浮かぶが、庶民的で親しみやすいと評する人も少なくない。

 当時の社会党から出馬した1990年の総選挙で初当選したが、その後落選。自民党に対抗する勢力の結集を頭に描き、地道な活動を進めたことが、器を大きくした。

 小選挙区制が導入された96年に徳島1区で当選し国政に復帰。「選挙の強さ」を印象づけ、徳島独自の「徳島民主主義」が大きく育っていると述べていた。

 一時は、本県選出の民主党議員が4人に増えたこともあった。その力なくして党勢拡大はなかった。「仙谷党」と称されたゆえんである。

 今年9月、徳島市で講演し人口減少と労働力不足、日銀の金融緩和策、エネルギーなど諸課題について言及、国の将来を案じていた。

 政治史に大きな功績を残したのは間違いない。心からご冥福を祈りたい