【第15回】美について 優劣をつけるのは無理

向井康介さん

 東京芸術大学の今年の学園祭で開催が予定されていた、容姿を評価するコンテスト「裏ミス藝大」が中止になった、というニュースを読んだ。

 元々、東京芸大には「ミス藝大」があるのだという。通常のミスコンと違い、性別を問わずに参加可能で、モデル、美術、音楽でチームを組み、毎年のテーマでパフォーマンスを競う。そのカウンター(反対に位置するもの)として、いわゆる容姿に重心を置いた「裏ミス藝大」を企画したところ、懸念の声が上がり中止にしたのだそうだ。

 少し前に、アメリカで現存する最古のミスコン「ミス・アメリカ」でも、今年の大会から水着審査を廃止するとの発表があった。この二つの出来事に「ああ、そういう時代になってきたのだなあ」と僕はうなずき、そして少しだけ寂しい思いにもなる。

 性差にまつわるこうしたハラスメントは過去に何度も俎上(そじょう)に上がっていたが、ハリウッドの映画プロデューサーによるセクハラ被害に端を発した「#MeToo」(「私も」の意)運動が始まって以降、問題はより一層人々の関心を集めているように思う。近年活発になってきたLGBT(性的少数者)に代表される「性の多様性」とも無関係ではないだろう。容姿、性別で判断されることなく個を認めようという提言は、至極もっともだと思う。

 だが、一方でこうも思う。美に優劣をつけるのは間違いなのか。歌手の声と同じように、容姿もひとつの才能だとは言えないのか。だとしたら、物理的な美貌を競うというのも、理屈の上では是としなければならないのではないか。

 それは女性であっても、男性であっても同じことだ。人を見た目で判断してしまうのは人間の悪癖のひとつだが、容姿の魅力を捨て去ってしまうのも悲しい。なぜなら、僕は美しい女性が大好きだからだ。

 僕はコンビニでグラビア雑誌をよく読むし、目当ての女優を見たいがために、その映画を何度も見ることもある。しかし、どういうわけか、僕が美しいと思っている女優やアイドルは、おしなべて他からの評判が良くない。飲み会などでそういう話題になると、「お前、あんな顔のどこがいいんだ?」などと言われ、力説しても、てんで相手にされない。

 そうすると意固地な僕は、美が分からないのは向こうの方だと開き直って、ひいきの女優のいいところをもっともっと見つけようとする。もちろん、彼らの言う「美しい女優」は僕の好みではない。思えば、物心がついた10代前半のころから女性の好みについてはずっとこの調子なのだ。

 美に優劣をつけるのは間違い、というより、どだい無理な話なのだろう。(徳島県三好市出身)=月1回掲載