記者会見する仙谷由人官房長官=2010年12月、首相官邸

 16日に死去が明らかになった元衆議院議員の仙谷由人氏は、舌鋒鋭いリアリスト(現実主義者)だった。民主党政権時は「プラグマティズム」を唱えた。実用主義、道具主義と訳される難しい哲学用語だが、要は、国民生活に役に立つかどうかでものごとを判断することだ。

 親しい同僚には「政治とは妥協の芸術だ」と説き、理想論を掲げるだけでは「政治家として意味がない」とのリアリズムに徹した。

 2009年に自民党から政権を奪ったものの、理想と現実のギャップに直面し、仙谷氏は原子力発電を容認し、憲法改正の論議をリードした。これには仙谷氏が変節したと批判する声が上がった。

 城南高、東京大では全共闘運動に身を投じ、左翼の運動家として一目置かれる存在だった。弁護士になってからは労働問題に取り組み、社民党の福島瑞穂氏が弁護士として同じ事務所で働いていた時期がある。

 しかし、社会党で2期目を目指した1993年衆院選での落選が、仙谷氏をリアリストに変えたのではなかろうか。

 落選後、リベラル政治勢力の結集を目指して「四国市民ネットワーク」を旗揚げ。理念よりも目に見える政策で成果を挙げることに力を注ぐようになった。徳島県選出の自民党国会議員の元秘書を呼び寄せるなど、リアリズムに根差した政治活動がウイングを広げ、保守層まで取り込んでいった。

 こうした流れが、自民党出身の鳩山由紀夫氏(当時は新党さきがけ)や社会民主連合出身の菅直人氏(同)らとの旧民主党結成へとつながったのだろう。

 政策にたけ、98年の金融国会では宮沢喜一蔵相(元首相)らと論戦し、野党案を丸のみさせた。論敵の宮沢氏や野中広務官房長官(当時)をうならせ、厚い信頼を得た。

 2002年初めに胃がんの摘出手術を受け「寿命には限りがある」と悟ってからは「清濁併せのむ傾向」(民主党中堅)が加速したという。

 時代を読む力も卓越していた。その真骨頂が「コンクリートから人へ」だろう。建設省(現国土交通省)が進める吉野川第十堰可動堰化計画に反対。「公共事業=ばらまき」という批判はボディーブローのように効き、ついには民主党政権誕生を成し遂げた。

 だが、その政権下、掲げた公約は次々と後退し、内輪もめが絶えなかった。うまくいかないいら立ちからか、切れ味鋭い発言がかえって「自衛隊は暴力装置」との舌禍を招く。自民党の標的となり、12年の衆院選で落選した際には「負のイメージを背負わされたのかな」とさばさばした表情で語った。

 「鳩・菅時代」にいつも支える側に回ってきた仙谷氏が知人にこう漏らしたことがある。「政界入りが10年遅かったなあ。もう10年早く政治の世界に来たかった」。鳩山、菅両氏のような理念型の政治家の対極にある仙谷氏が首相に就いていたならば、今の日本は大きく変わっていたかもしれない。(編集局次長・松本真也、政経部長・門田誠)