吉良邸襲撃の前日、元禄15(1702)年12月13日、大石内蔵助(くらのすけ)は親友の三尾豁悟(みおかつご)に心中を記す書状を送った。その現物がおよそ60年ぶりに公開される。あすから徳島城博物館で開かれる特別展「討入りとその周辺 赤穂義士と徳島藩」の目玉だ

 <志うすきものどもは跡にのこり 親切の者ども四十八人 妻子親類、後難をかえりみず・・・>。志ある者48人は、後に妻子らに難が及ぼうとも、討ち入りを決行する-。文面からは大石の決意がまざまざと浮かぶ

 忠臣蔵なら四十七士。文をしたためた後、毛利小平太が脱落している。それにしても、大石が最後に頼りにした三尾は、魅力的な人物だ

 父は徳島藩の重鎮。母の実家のある滋賀・大津で育ち、没した。大石が京都・山科で計画を温めていたころ、懇意にしたようである。身分は浪人だが、藩から厚く遇され、金はあった。浪士に資金を提供していた可能性もある

 主君の無念を晴らし、四十七士は英雄となった。人気にあやかろうとする者が数知れない中、三尾は終生、大石との関係を語らなかった。死地に赴く者が頼むに足りる、誠実な人柄だったのだろう

 博物館によると、これまで書状の存在はあやふやで、二人の友情に光が当たることはなかった。文中には「阿州」の2字もある。赤穂事件と徳島とのつながりは、意外に深い。