旧暦の12月14日は、「忠臣蔵」で知られる赤穂事件の起こった日。主君の無念を晴らした赤穂浪士四十七士の頭領である赤穂藩家老大石内蔵助(くらのすけ)良雄のルーツが徳島藩祖蜂須賀家政に行き着くことはほとんど知られていない。また、内蔵助は討ち入る決意を書いた手紙を、親戚の同藩家老に残していた。そんな意外な史実と、そこから垣間見える家の付き合いや婚姻で成り立っていた江戸時代の武士の交際について専門家に聞いた。
内蔵助は蜂須賀家政の外孫の孫。家政の次女万が岡山・鳥取藩家老池田由之に嫁ぎ、万の孫が内蔵助の母の熊という関係だ。
家政は1626(寛永3)年、由之の次男由英を徳島に招き、徳島藩2代藩主忠英(ただてる)を支える側近の家老に据えた。蜂須賀家と岡山・鳥取の池田家とは懇意な間柄といえる。
内蔵助は、由英の子である正長に、吉良上野介(きらこうずけのすけ)邸への討ち入り前日の12月13日付で手紙を書いている。永遠の別れを告げる「いとま乞い状」と呼ばれるものだ。「赤穂義士史料下巻」(1931年)に掲載されており、一部の専門家には知られてきた。
手紙には、内蔵助が主君の無念から討ち入る決意をした経緯を記し「時期が来たので吉良の屋敷に乱入する。自分の死後、親類の池田家や徳島側に討ち入りの件を知らせてほしい。手紙は読後、焼いてほしい」と心情を吐露している。
徳島城博物館学芸員の根津寿夫さんは「内蔵助は、身近な池田家は幕府に警戒されており、少し遠縁の正長になら届くと考えた。討ち入り決行は極秘で事前に漏れると失敗したはずだ。討ち入りの狙いを誰かに伝えてほしいと望んで託し、2人の信頼の強さを裏付ける手紙」と分析する。
また、内蔵助は討ち入る前の夏には、妻や義士に対し、母の姓を使った「池田久右衛門」の変名で複数の手紙を書いている。「世間では討ち入りがある、とうわさされ、幕府から一挙手一投足を注目される中、見つからないように近況や情報を伝えていた」と根津さんは推測した。
当時の大名家は「婚姻に基づく家の連合のようなもの。家老も近隣の家老と結び付いて情報交換し、大名家の運営と領国支配を進めた」と解説。蜂須賀家と池田家、大石家との関係も当てはまると指摘した。
徳島と赤穂義士との関わりと言えば、四十七士の一人、近松勘六の継母(けいぼ)で、同じく奥田貞右衛門の実母でもあるかめが、徳島藩士仁尾清右衛門の次女であることが有名。「義士2人を育てた母」として徳島市福島1の慈光寺に墓が残る。
郷土史研究家高田豊輝さん(79)は「内蔵助が蜂須賀家政の親戚とは、かめの件より一段と大きな事実。郷土史的価値が高く、県民に広く知ってほしい」と語る。郷土史研究家三好昭一郎さん(87)も「日常から討ち入り前まで、内蔵助と正長との交際の様子が明らかになると、阿波史に限らず赤穂義士研究の大きな成果となる」と話した。