家庭のインターホンや自動火災報知器、学校の校内放送などの電気通信工事を京都市内で手掛ける。「会社を興して今年でちょうど40年になります。多くの人に支えられて何とか続けてこられた」と振り返る。

 これまでの歩みは決して平たんではなかった。山城谷村(現三好市山城町)で農家の三男として生まれた。生活は苦しく、中学を卒業するとすぐに池田町内のしょうゆ製造会社で勤める。学問を修めたいとの思いは抑えられず、池田高夜間部に進学。働きながら4年かけて卒業した。

 異動で京都に移った後、家電販売会社に転職。中途採用だったものの自社商品について猛勉強し、顧客の信頼を得た。人脈を広げるうちに知人から起業を手助けしてほしいと懇願された。「当時は子どもが小さくて悩んだが、人生は一度きり。やりたいことをやろうと思った」

 創業後3年で業績を軌道に乗せると、仕事は次々と舞い込んだ。それでも安易な業容拡大に走らず、堅実に仕事を積み重ねた。「やる人が少ない業種なので頼まれることが多かっただけ」と話すが、不況で同業他社が相次いで廃業する中でも着実に経営を維持してきた。

 創業30年を迎えた年に一線を退き、娘婿に社業を託す。以降、アマチュア無線や登山、旅行、狩猟など趣味に割く時間が増えた。「数々の趣味も人の縁を通じて始めたものばかり。今になって人生を楽しむ余裕ができてきたのかな」と笑う。

 古里への愛着は強く、廃校になった出身中学の時計が止まったと聞いたときは涙したという。県人会や高校同窓会などにも積極的に参加する。「今更ながら生まれ育ったところは懐かしい。徳島が頑張っていると聞くと、自分のことのようにうれしく思います」。

 すまる・ただよし 池田高卒。1956年から京都に移り、76年に京放を設立。京都府電気工事工業協同組合副理事長、京都府有線テレビサービス協同組合理事長なども務めた。京都市在住、79歳。