出稼ぎ、およそ1カ月。働きづめに働いた牛たちは、降り積もった落ち葉を踏みしめて、わが家を目指した。阿波へ戻る道は、現在の高松市塩江町辺りから、にわかに傾斜を増す。疲労困憊し、峠を越せなかった牛がいた

 米のできなかった徳島県西部の山あいには1950年代ごろまで「米取牛」の風習があった。香川では「借耕牛」と呼ぶ。春秋の農繁期、農耕用の牛を讃岐平野の農家へ貸し出し、対価に米を得たのである。戦前は4千頭もが阿讃山脈を越えたそうだ

 帰路に倒れた牛の墓が、塩江町内の数カ所にある。その一つはやぶの中、楕円形の自然石に「牛ノ墓」と刻んであった。さして大きくないものの、きちんとした石工の仕事である。明治6(1873)年を筆頭に没年が三つ

 「1頭を何軒かで使ったから、さぞかし重労働だったでしょう。ようやくここまで来たのにね」と地元の里山案内人・楠明子さん

 後始末は付近の人がするのが習慣で、牛が背負って帰るはずの米が、その費用に充てられた。自分の葬式代を稼ぐため、追い使われたようなものである。埋葬された3頭がふびんでならなかった

 坂を上りつめ、県境の相栗峠を過ぎると視界が開け、遠く吉野川が望める。この風景を再び見ることができなかった牛たちも、徳島の近代をひたむきに支えてきたのである。