迷ってもみるものだ。修繕工事が終わった海陽町の県指定史跡・大里古墳の見物に出掛けたのはいいが、道を間違え大里松原海岸に突き当たった
ウミガメ上陸の便りでしか知らなかったが、来てはみるもの。延々と茂る松林、緩いカーブを描く海岸線は、寄せる波を包むよう。「白砂青松百選」に入るだけあって、さすがの名勝である
松林の一角にある墓地を行き過ぎようとして足が止まった。「火縄銃の名人」。案内板に導かれ、名人の墓碑を探した。20基余りの墓群の最後列、戒名「百発百中院義蔵居士」
積年の風雨に黒ずむ墓の「百発百中」の文字が、平凡ではなかった生涯を物語る。主は来條義蔵(きたじょうよしぞう)。銘によれば、父親と同じ日、1864年8月11日、28歳で病死している。資性温柔とあるから、穏やかで優しい人だったらしい
町教委の郡司早直さんによると、義蔵の事跡はほとんど伝わっていない。大里は南阿波の防衛拠点。生け垣などに御鉄砲屋敷の名残をとどめる。砲術試験で100発ことごとく的に当てたという義蔵も、南方警備に従事した一人かもしれない
名人とはいえ、あまりにもとっぴな戒名が、なぜついたか。あれこれ考えてみると、結局は家族の、故人への深い愛情に思いは至るのである。くだんの大里古墳は、9日に阿波海南文化村で完成記念講演会がある。