徳島新聞賞 「海風の吹く町で」

坂東 広文 (徳島市北常三島町)

 あらすじ

 本社から仲卸店の店長として市場勤務を命じられた主人公。不満も抱え、繁華街で酒を飲む日が続く。その夜もバーで飲んでいると、旧友Yの死を知らせる電話が掛かってきた。通夜に出席した後、タクシーを飛ばして自宅に帰ろうとした主人公は、吉野川の土手から車ごと転落する。しみじみとした読後感が味わい深い掌編。

 全文

 砂混じりの湿り気を帯びた海風が容赦なく身体を叩いた。午前四時半、沈みかけた月が駐車場のコンクリートを淡く照らしている。

 中央卸売市場の青果棟、鮮魚棟、一般棟の各施設は、冬眠中の月の輪熊のように、寒風のなかに蹲っていた。仲卸の店の大部分は開店準備を終えていた。僕はポケットから鍵を取り出し、シャッターをあけ、蛍光管に灯りをつけ冷蔵庫からショーケースに商品を移した。ひととおりの作業を終えると、金庫のダイヤルを回し、レジスターに現金を用意した。

 デスクに腰をおろし、煙草に火をつける。通路から吹き込んでくる風が紫の煙を真横に運び去った。達磨ストーブに火はつけていたが、打ちっぱなしの土間コンクリートから立ち上ってくる冷気は骨の髄まで染み入ってくる。

 客はひっきりなしにやって来た。腰に手鈎をぶち込んだ魚屋の兄さんや、酒を一杯ひっかけたと思われる赤ら顔の男に混じって、いつもの常連客の姿も通路に垣間見える時刻になった。六時になると二名のパートが出勤し、三人で客の対応に追われた。市場の通路には、笑いや喧噪が渦巻いていた。やたらに忙しく、椅子に座る間もない時間が続いた。

 昼前に客足が途絶え始めると、パートを帰した。それから一日の売り上げを集計して、銀行の担当が来るのを待った。釣銭だけ残して金庫に戻し、シャッターを閉めて仕事を終える。あとは自由だった。

 当時二十五歳だった僕はアパートで一人暮らしをしていた。本社から仲卸店の店長として異動を命じられ、店の経営を任されていた。接客の仕事は自分に向いていた。息をするように苦も無く、対面販売の仕事をこなすことができた。組織を離れ、何もかもを自己決済する仕事は責任もありきつかったが、上役や同僚と顔を合わすことのない毎日は、会社の人間関係に嫌気がさしていた僕にとっては気楽この上ないものであった。時折襲ってくる焦燥感は、幾分自棄気味に飲むウイスキーによって薄められた。いつも強い風が吹いている海辺の町で、僕は不幸でもなく、かといって幸せでもない中途半端な青春を生きていた。

 日が暮れると飲みに出かけた。徳島駅行きのバスに乗り、中央郵便局前で下車して、両国通りをぶらぶらと歩いてネオンの街へ向かった。会議の打ち上げらしきサラリーマンの群れや、前を歩く若い男女を押しのけながら、僕は馴染みのバーへ通い続けた。重い扉を開けてカウンターに座ると、僕の好きな音楽がいつも流れていた。ひと回り年長のマスターとの会話も楽しかった。

 その日、驟雨をついて飲みに出かけたいつものバーで、僕はバーボンを飲んでいた。

 まだ早い時間ということもあり、こんな雨降りの晩にやってくる酔狂な客は僕と、カウンターの隅っこで文庫本を読んでいる常連の女との二人だけだった。静かだった。ビートルズの懐かしい楽曲だけが店内に流れていた。

 不意に店の奥の公衆電話が鳴った。マスターが受話器を取り、しばらく話をしていたが、やがて僕の方を向き直り、片手で送話口をふさいで僕を呼んだ。

 受話器を耳に当てると、旧友の低い声が聞こえてきた。

 「いや、お前の家にも電話したんやけど、おらんかったのでもしかしたらと思って」彼ともこの店でよく一緒に飲む間柄だった。

 それから数分の間に、共通の友人Yが事故に遭い、昨日遅くに亡くなったこと、今晩が通夜で、明日二時からが告別式、彼はどうしても参列が叶わないことを聞いた。腕時計の針は午後七時を少し回っていた。

 激しさを増した雨の中、路上に並んで停まっているタクシーに乗り込んで行き先を告げた。

 Yの家は県北の山間部にあった。ここからなら一時間少しで着くはずだった。タクシーは吉野川大橋北詰を左折し、堤防道路を吉野川沿いに上流に向かって走った。規則正しいワイパーの音に混じって、AMラジオから間延びしたパーソナリティーのひとり喋りが流れている。時折、歌謡曲がかかった。夜の吉野川は増水していた。黒い濁流がどうどうと流れ下っている様が、いくつか架かる橋の街灯の灯りで見て取れた。

 話によると、昨日Yは同僚と二人で一台の車で営業に出ていて、その帰り対向車と正面衝突したらしい。助手席のYは車外に投げ出された。即死だった。

 吉野川の中流域で右折し、しばらく北上していたタクシーが山道にはいった。細いうろ覚えの道をくねくねと上り、何度目かのカーブに差し掛かったときに、ヘッドライトに照らされて、赤い椿の生垣が浮かび上がった。鮮やかな花の色は手招きをしているように感じられた。生垣にもたせ掛けてYの家を指し示した看板が立っていた。彼が出迎えにきてくれているように思えた。

 タクシーを庭に待たせ、玄関の引き戸をあけて、出迎えてくれたご両親に挨拶をした。

 「神も仏もあるものか」一通りの挨拶のあと、Yの父が悲痛な声をもらした。

 長い廊下を案内されて、和室で布団に横たわっている彼と対面した。

 いつもの穏やかな顔を見て、もう二度と目を開けることもないし、互いに冗談を言い合って、笑うこともないのだとはっきりと自覚した。僕は静かに涙を流した。明日告別式に伺う旨を告げ辞することにした。

 入るときには気付かなかったのだが、去り際に玄関の開き戸を閉めようとして、杉の羽目板が一枚はずれ、応急にガムテープで固定してあるのが見えた。玄関の軒先まで見送ってくれたYの母が事情を説明してくれた。昨夜警察から電話があり、収容された病院へ向かおうとして、方向転換のために車をバックさせたところ、羽目板にバンパーがわずかに当たり真っ二つに割れたというのだ。よほど気が動転していたのか、急ぎ過ぎたのか、とにかくこんな事は初めてだと、やつれた表情のままYの母は言った。

 彼は帰って来たのだ、と僕は思った。生まれ育った我が家にお別れを言いにきたのだ。割れて外れた羽目板の隙間をくぐり抜け、Yの魂は家の廊下を風となって吹き渡り、部屋をめぐり、そしてまた出て行った。その様を思い浮かべるとせつなかった。
 待たせていたタクシーに乗り込み家路を急いだ。十一時前にはアパートに帰り着くだろう、と軽く思っていた。

 雨は間断なく降り続いている。だんだんきつくなっていくようだった。丁度、第十の堰を越えたあたりから、豪雨と言っても良いような激しい雨がフロントガラスを叩き、ワイパーは全く効かなくなった。堤防道路の上で、タクシーは立ち往生した。まだ交通量が途絶する時間帯ではなかった。対抗車線の車が近づいてきているのが、フロントガラスに映るヘッドライトで分かった。運転手は少し左側へハンドルを切りゆっくりと前進した。その瞬間車が傾き、タクシーは堤防の斜面を転がり落ちた。かろうじて斜面の中ほどにタクシーはしがみついていた。

 「お客さん、いけますか」傾いた姿勢でハンドルをにぎったまま、運転手はすまなそうに言った。

 「うん、いけますよ。命拾いしましたね」僕は答えた。無性に煙草が吸いたかった。

 シートにもたれて煙草を一本吸い、それから二人でおっかなびっくりドアを開けて、激しい雨のなかへ出た。瞬く間に全身がびしょ濡れになり、身体を泥のように重くした。斜面を這うように駆け上がると、後続車のヘッドライトが見えた。中から背の高い男が傘を差して降りてきた。

 「怪我はありませんか」男は心配そうに声をかけてきた。

 男の身体も見る間にずぶ濡れになった。僕とタクシーの運転手に怪我がないことを確認すると男は言った。「なんなら私の車で適当な場所まで送りますよ」

 有難い申し出だった。タクシーは無線を使い会社の仲間を呼び、しばらくここで待機する事となり、僕ひとりが男の車に乗り込んだ。タクシーの運転手には僕の電話番号をメモしてもらい、代金は後日の支払いとした。

 「すみませんね、シートを濡らしてしまって」僕は助手席から運転席の男に声を掛けた。雨雲が移動したのか、わずかに雨脚が弱まり、視界の確保が可能な天気に戻っていた。

 「シートが濡れるくらい何ともありませんよ。それよりも、いっそお宅まで送りますから」男は答え慎重に車を走らせた。

 住吉街道に入った頃には雨は更に弱まり、運転もしやすくなったのか、車はスピードをあげ、金沢、沖洲と進んでいった。やがてアパートに着き、僕は男に礼を言った。

 車から降りて路肩から出ていこうとする車を見送っていると、不意に窓が開き、男は僕を見つめてわずかにほほ笑んだ。見慣れたYの顔だった。窓が閉まり車は走り去った。しばらく僕は雨の中に立ち尽くした。

 シャワーを浴びウイスキーを一杯ひっかけてから布団にもぐり込んだ。真夜中になっていた。すぐに寝息を立てて眠ってしまったようだ。

 夢をみた。夢の中で学生の僕らは授業をさぼって喫茶店に居た。数人の友人に混じってYの姿もあった。取るに足りない話題が延々と続き、皆が笑っていた。Yの屈託のない笑顔だけが徐々に薄れ、ゆっくりと遠ざかっていく。手を伸ばして繋ぎとめようとしたが、やがて見えなくなった。

 目覚ましのベルが鳴る。僕はのろのろと起き上がり煙草に火をつけた。深く吸い込んでは吐き、一本吸い終わるころには眠気は飛んでいた。

 昨夜の雨はもう上がっていたが、海風は相変わらず強く吹いていた。ジャンパーをひっかけて市場へと向かった。また日常が始まる。早朝から昼までの数時間、客に挨拶をし、軽口のやりとりをし、商品を渡し代金を受け取る。仕事を終え、晩にウイスキーを飲んで眠る。その繰り返しだった。ただ、その日を境に一つだけ日常に変化があった。僕は今までよりも前向きな生き方をするようになった。他人の評価など糞くらえと思えるようになり、全力で仕事に打ち込んだ。最後に見たYの微笑みが心を照らしていた。

 その年の夏、本社に復帰することになった。引っ越しの日、親父とお袋が荷造りを手伝いに来た。軽トラックの荷台に収まる程の少ない荷物だったが、息子の為にと両親は汗をかいてくれた。

 市場近くの寿司屋にはいり三人で昼にした。日頃寡黙な親父が言った。

 「よう頑張ったな。本社に戻ったら、皆に好かれるようにな」

 僕はゆっくりと頷いて、親父にビールをついだ。

 「もう心配いらんよ」

 寿司屋を出ると夏空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。海からの白南風が僕らの間をすり抜けていった。 (了)

 【著者略歴】ばんどう・ひろふみ 1959年、阿波市市場町生まれ。阿波高校を経て京都産業大学経済学部卒。会社員。58歳。