三好市出身の脚本家向井康介さんが、日々の暮らしで感じたことや創作の心構えをつづる。

【第8回】馴染みの定食屋
本屋で何気なく開いたグルメ本を見て驚いた。都内のとある鮨屋(すしや)の予約が、なんと2025年まで埋まってしまっているというのだ。カウンターのみの小さな店で何カ月も予約が取れないという鮨屋は数あれど、まさか8年後まで埋まっている店があったとは恐れ入る。
先日行こうとしたラーメン屋でもそうだった。仕事でよくこもる温泉街にある店で、昔からよく通っていた。数年ぶりに行ってみると、開店前からすでに長蛇の列。待っている人に聞くと、朝の7時から開店時間の11時半まで、1時間おきに整理券が配られるらしい。今から待っても3時間はかかるという。僕は青ざめて、ふらふらとその場を退散した。
インターネットの功罪だろうか。誰もが情報を即座に発信し、同時に受け取ることができる社会。おいしいものが食べたければ、スマートフォンでちょっと検索してみればいい。お薦めの店がいくつも出てくる。それも口コミだから信頼がおけるし、丁寧にランキングまでついている。順位がついていると、1位のものが食べたくなるのが人の性。結果、皆が皆、同じ店に集まってくる。周りが旨(うま)いと言っているのだから、旨いに違いない。その思い込みは人に考えることをやめさせてしまう。
その定食屋は新宿にほど近い静かな住宅地の外れにある。営業時間は大体夕方の5時ごろから深夜の2時ごろまで。表向きはトンカツをメインにした定食屋とうたっているが、ほとんどの客が居酒屋のような使い方をしている。カウンターに7、8席と、ふたり掛けのテーブルが二つだけの小さな店で、老境に差し掛かった夫婦が、言葉少なに、てきぱきと厨房(ちゅうぼう)で働いている。

壁にかかった小さな黒板にその日のメニューがチョークで書かれ、品数は多くないが、刺し身から揚げ物まで豊富にそろっている。それがまたびっくりするほど安くて、そのどれもが素朴に旨い。
夜の街から徒歩圏内ということもあって、仕事上がりの水商売の人も多い。何より若い客がいないので静かだ。いつ行っても席は空いていて、けれど客が一人もいなかったということがない。皆、喧騒(けんそう)に飽きて物憂げに瓶ビールを飲んでいる。人、肴(さかな)、酒、その全てがちょうどいい温度で僕を温め、陶酔させる。名店というのは見つけるのではない。自分で通い、つくるもの。通えば通うほどに、客が店に馴染(なじ)んでゆく。
この店に来るたびに、僕は丸谷才一がエッセーで書いていた言葉を思いだす。「旨くて高い店はいくらでもある。旨くて安い店もたくさんある。そうそうないのは、旨くて安くて、そして混んでいない店だ」
この定食屋、できれば流行(はや)らないでいてもらいたいものだ。この店に行列は似合わない。
(2017年12月8日掲載)
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