家の基礎には重厚な石垣が残り、漁師の木造民家の手すりには競って作った装飾が目を引く。江戸時代に徳島藩の海上方として栄えた阿波水軍の大将・森甚五兵衛の本拠地だった阿南市椿泊町。城下町で栄えた往時の面影や、昭和初期の遠洋漁業で潤った漁師の心意気を、今に伝える。
海に面し背後に山が迫る町並み。東西に続く一本道はとにかく狭い。椿泊漁協付近から東端の岬まで続く約2・5キロの市道・椿泊線は幅約2~2・5メートルで、車1台がやっと通れるほど。両側には2階建ての民家がひしめくように並び、狭小のS字や直角の曲がり道が点在する。
初めて訪れる人は、その狭さに驚くだろう。車体をこすらないかハンドルを持つ手にも力がこもる。
交通量は多く、車がせわしなく行き交う。対向すれば、わずかのスペースを使ってかわす。民家の駐車場には、全長4メートルを超えるセダンタイプやワンボックスカーも止まっている。
道沿いでセダンタイプの愛車を磨いていた運転歴約40年の太居晴美さん(65)=椿泊町小吹川原、漁師=は「進入角度を間違わなければ、だいたいの車は大丈夫。S字ならぎりぎりまで建物に寄せながら進み、タイミングを見て一気に切り返すんがこつやなあ」。得意げに話す。
最大の難所とも言われるのが、森氏の居城・松鶴城跡に建つ椿泊小学校の手前。直角が二つ続き「魔のクランク」とも呼ばれる。角に立っているポールは何カ所もへこみ、多数の傷がある。車がぶつかったり、すったりしている跡であることは容易に想像がつく。
なぜこんなに曲がった道なのか。森氏が敵の侵攻から守るためにしたとされる。森氏歴代の墓15基が残る同町寺谷の道明寺の宮崎穣住職(44)は「城跡から外へ出るより、城跡へ向かう方が通りにくいと感じる。よく考えている」と指摘する。
椿泊小学校の玄関脇には「皇太子殿下行啓記念碑」が立っている。1991年12月、皇太子さまが専門である「中世の海運」を研究するため視察に訪れた。
こんな狭い道に、皇太子さまが乗った大きな車が通れたのだろうか?
聞けば、皇太子さまは車で通ったのではなかった。県の漁業取締船を使って椿泊小近くの岸壁から上陸し、松鶴城跡などを見て回った。漁船300隻が大漁旗を掲げ、住民500人が人垣をつくるなど町総出で迎えた。
皇太子さまと言葉を交わした撫中トシ子さん(80)=椿泊町小吹川原=は「笑顔が素敵で、優しく声を掛けてくださった」と当時の新聞を大切に保管する。椿泊漁協の久米順二組合長(61)=椿泊町東=は「古里の歴史に関心を寄せていただき、町の素晴らしさを再認識した住民も多かった」と振り返る。
昨年12月には2019年5月1日に皇太子さまが新天皇として即位することが決まり、当時のことを思い起こす人も多い。
「日本でこんな狭い道はないのではないか」と言われる町並みは、歴史を感じさせる情緒が漂っている。