多くの寺院が密集する白壁の寺町一帯を抜けると、春日神社や滝薬師など神社仏閣が眉山東麓に点在する一帯にたどり着く。かつて大きな滝があったことで「大滝山」と呼ばれ、徳島市内で城下町の情緒を感じられる。
登り口にある滝薬師の左奥。名物「滝のやき餅」で知られる和菓子店「和田の屋」に入ってみる。生まれも育ちも大滝山という社長の和田茂夫さん(60)が迎えてくれた。
「滝のやき餅」は1585(天正13)年、徳島城築城の祝いとして蜂須賀家に献上されたといわれ、歴代藩主の御用菓子として名声を得た。1948年創業の和田の屋は、400年以上前と同じ製法を用い、その味を伝えてきた。和田さんは「大滝山は桜の名所。昔は花見の時季になると石段を歩けないぐらいの人だかりだった」と懐かしむ。
やき餅を頬張りながら店舗の脇の石段を上がる。山の斜面にへばりつくように造られた石段は、急勾配で曲がりくねり、途中で枝分かれし、まるで迷路のようだ。
上ってすぐ右側に「庚午(こうご)志士の碑」がある。「最後の切腹事件」で知られる1870(明治3)年の「庚午事変」で切腹した志士10人をたたえる石碑だ。大きな滝の名残となる「白糸の滝」の上に不動明王、右上に初代徳島市長・井上高格(たかのり)の顕彰碑、さらに左上に地蔵尊。上って左に曲がると八阪神社、そのまま上ると、三重塔があった跡地に聖観音堂が建つ。もう少し上ると御嶽(おんたけ)神社。神社仏閣のオンパレードだ。
石碑は脇道にも並ぶ。徳島藩最後の藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)の詩碑、庚午事変にも関わった儒学者・新居水竹(すいちく)の顕彰碑などが次々と現れる。江戸後期から昭和初期にかけての石碑約30基が神社仏閣と混然一体となって立ち並び、一つの美術館のような雰囲気を醸す。
それにしても、これほど多くの石碑が集まっているのはなぜだろう―。四国大文学部の太田剛教授(近世近代日本書道史)によると、大滝山が人々でにぎわい、世間の注目を集める場所だったからという。
江戸時代は徳島城下の庶民が祭礼には必ず訪れる憩いの場で、明治時代には朱塗りの三重塔をランドマークとする門前町として栄えた。芸者が行き来する料亭、茶屋などが十数店も軒を連ね、夜通しのにぎわいを見せていたという。
以降も繁栄していたが、1945年の徳島大空襲で三重塔、春日神社など神社仏閣の大半が焼失。戦後の復興で桜の名所として活気を取り戻したものの、市街地の中心は交通の便の良い新町川一帯、そして徳島駅前へと移り、にぎわいは徐々に薄れていった。
付近を愛犬と毎日散策しているという久米川卓也さん(65)は大滝山で生まれ育った。今の静かな環境を好みつつ、「若者や外国人の姿もよく見かけるようになった」と変化を感じている。
最近では「インスタ映え」する風景を探し、女子大生や子連れの主婦ら20~30代女性がやって来るとか。はやりのパワースポット巡りやエコブームの後押しもあり、都会の喧噪(けんそう)を離れて癒やしを求める東京からの旅行客も多いらしい。
往時の名残をとどめ、古き良き時代の風情が漂う大滝山。時を経て再び注目され、人々が集まり始めている。