グラウンドで写真に収まる富岡西の選手たち。左から4人目が坂東=1955年9月、同校

長尾昌明

 1951年、富岡西高は夏の県大会で初めて準決勝に駒を進めた。対戦相手は城北高。同校は当時、学校再編で徳島商高を包括していたため、主力は商業課程の選手が多く、投打に力のあるチームだった。

 勝てば南四国大会出場が決まる一戦とあって、富岡西高ナインの意気込みはひとしおだった。しかし、気負いから普段通りのプレーができず、1―14で大敗。マウンドを託された長尾昌明(85)=阿南市山口町=は「死んでやろうかと思うほど悔しかった」と振り返る。創部から50年、「打倒・徳商」はならなかったものの、初めて甲子園が見えかけた。

 夏の県大会初の4強入りに至るまでの道は長かった。太平洋戦争が終結した翌46年に夏の全国中等学校野球大会が再開し、旧制富岡中として47年の県予選で復帰。初戦で海部中(現海部高)に4―8で敗れたが、32年以来、15年ぶりの夏の県大会出場に部は活気づいた。

 48年には学制改革で高校野球がスタート。富岡一高となって臨んだ夏の県大会で6―1で池田高を下し、勝利を刻んだ。49年に現校名の富岡西高となったが、上位進出にはまだ力不足だった。

 50年に徳島商業出身の指導者を監督に迎え、強化が進む。選手は捕球や送球、走塁といった基本をたたき込まれた。投手や捕手をこなし、主将も務めた長尾は「送球練習で1日200球は投げた。休みは元日ぐらいしかなかった」と話す。

 毎日、へとへとになるまで白球を追う一方、県南屈指の進学校で学業にも励んだ。「勉強ができないと練習を休まされた。授業では先生の表情から大事な箇所が分かるぐらい集中した」と長尾。道具や練習環境は十分でなく、マウンドは手作り。「専門家に『上手にできとるね』と言われた」と当時を懐かしむ。バックネットやブルペンと施設が徐々に整い、練習の成果が現れだした。

 54年夏には、プロ野球・阪急などで監督を務めた上田利治(故人)が投手だった海南高(現海部高)に2―3で善戦。この試合に1年生で出場して安打を放った坂東徹(80)=小松島市間新田町=は「あの時は力のある選手が多かった」と話す。

 その後、再び低迷期を迎えたが、63年秋の県大会では準決勝まで勝ち上がった。相手は、尾崎将司(72)=プロゴルファー=を擁し、翌春の選抜大会で全国優勝を果たす海南高。試合はエースで4番だった伊勢達(さとし)(72)=徳島市国府町=の好投で接戦に持ち込んだ。結果は豪腕・尾崎の前に1―3で敗れはしたが、伊勢は「自分たちは決して強いチームではなかったが、善戦できて自信になった」と回顧する。

 しかし、この一戦以降、甲子園が懸かった大会では目立った成績を残すことができず、月日が流れる。聖地・甲子園。それは富岡西高にとって遠い存在だった。 (敬称略)