春の県大会で強打の日和佐を散発3安打で完封した富岡西の左腕小川。打者・中山=1978年3月31日、蔵本球場

 1978年、富岡西は夏の県大会準々決勝で優勝候補の鳴門商(現鳴門渦潮)を破り、27年ぶりの4強入りを果たした。甲子園まであと2勝。中堅手だった大木仁(58)=東京都杉並区=は「みんな野球が好きで、甲子園に行くぞという気持ちは強かった」と振り返る。

 63年秋の県大会4強入り以降、富岡西は上位の壁を破れずにいた。67年春の県大会で準優勝した以外は、8強入りもままならなかった。特に夏の大会は苦戦を強いられた。学業を優先し、3年生の多くが夏を待たずして退部。他校との戦力差は大きく、大会序盤での敗戦が続いた。

 しかし、78年のチームは違った。74年春の選抜大会を選手11人で準優勝し「さわやかイレブン」と称された池田の活躍に刺激され、甲子園への憧れを強くした世代が入学。大木のほか、エース左腕だった現監督の小川浩(58)=阿南市長生町=ら7人が3年の夏の大会まで残った。

 周囲も選手の熱い思いに応えようと協力を惜しまなかった。当時の監督・岩佐信淵(のぶひろ)(79)=小松島市大林町=は「選手がそろい、甲子園を目指せると思った。校長も担任を外してくれ、指導に時間を割けた」と話す。校長だった喜田泰臣(故人)は、出身校・早大から学生をコーチとして招くなど野球部をサポートした。

 この頃の練習について大木は「一つ一つのトレーニング方法が参考になった」と振り返る。右翼手だった藤田昌史(57)=奈良市=は自宅から片道13キロを走って通学。他にも走って通う選手が現れるなど、部員の野球に打ち込む姿勢が変わっていった。

 鳴門商との夏の県大会準々決勝は、大木の本塁打や小川の好投で6―0の完勝。甲子園出場の期待も高まり、寄付金集めの話が出るほど盛り上がった。だが、準決勝の鳴門戦は、3連投となった小川が「六回に疲れが出てしまった」と集中打を浴び、1―3で敗戦。聖地に届かず選手たちは号泣した。藤田は「悔しかったけど、やりきったという思いは強かった」と後悔の念はない。この年を境に、3年生が夏の大会まで戦い抜く流れが根付いていった。

 次の一手は、経験豊富な指導者をチームに招くことだった。校長の喜田は79年、前年に徳島商を夏の甲子園に導いた市原清(66)=徳島市応神町=を呼んだ。市原はコーチや監督を務め、伝統校・徳島商で培ったノウハウを注いだ。一方で県外の強豪チームと練習試合を組み、全国レベルの戦いを経験させた。市原は「部員も少なく、監督や部長らと車3台で各地に出向いた」と振り返る。

 その結果、チーム力は上がった。80年夏には右腕エース水野隆司(56)=阿南市宝田町=が、後にプロに進む島田茂―秦真司の大型バッテリーを擁する鳴門と互角の戦いを演じた。1―2で敗れたものの、水野が許した安打はわずか4。打線も島田に要所を抑えられたものの2桁安打で成長の跡を見せた。

 78年、80年とも夏の甲子園には届かなかった。それでも強豪校と対等に渡り合ったこの時期の活躍で、実力校として注目される礎が築かれた。(敬称略)