柳本勝彦

初の秋季四国大会では1回戦で明徳と対戦。強豪の壁は厚かったが、甲子園へまた一歩近づいた。捕手は富岡西の森=1983年11月21日

 1983年秋、この年就任したばかりの青年監督が富岡西を初の四国大会へ導く。指揮を執ったのは、当時22歳だった現監督の小川浩(58)=阿南市長生町。78年に夏4強の原動力となった左腕エースは国学院大を卒業後、母校に戻った。

 小川の前任だった仁木能業(よしなり)(75)=那賀町阿井=が監督就任を勧めた。仁木には若い頃、希望の部活動を指導できなかった経験があった。それだけにやる気に満ちた若い指導者が「びしびしと鍛えてくれる」とチーム強化へ期待を寄せていた。

 小川は「母校を強くしたい」との思いで引き受けると、大学の練習メニューを取り入れた。108本の塁間ダッシュといった厳しい練習も課し、グラウンドではひとときも気を抜かないきびきびとした動きを求めた。選手たちも必死に食らい付いた。捕手の森栄治(51)=阿南市吉井町=は「監督が率先してやってくれていたのでついていけた。試合になれば伸び伸びとプレーさせてくれた」と振り返る。

 部員は12人と少なく、大学を出たばかりの小川も積極的に練習に加わった。打撃投手も務め、1日2試合を組んだ練習試合で投手が足りず、自ら登板したこともあった。主砲だった柳本勝彦(52)=阿南市橘町=は「池田との試合で(監督は)七回までノーヒットに抑えていた」と話す。監督と選手の年齢が近く、ナインには兄貴のような存在でもあった。

 練習時間は3時間ほどで短かったが、効率的に取り組んだ。夏休みはあえて最も暑い時間帯を選び、白球を追った。給水にスポーツ飲料を使ったり、準備運動にストレッチをしたりと新しい練習法も積極的に取り入れた。短時間の練習で選手の集中力も高まった。

 夏のトレーニングが秋の県大会で実を結ぶ。1回戦で新野を5―0で破ると、辻(現池田辻)を14―2、海南(現海部)を4―3で下し、準決勝に進出した。

 準決勝では、練習試合で大敗したこともあった鳴門商(現鳴門渦潮)とぶつかった。後にプロ野球・ヤクルトに進む柳田浩一を擁する強打のチームを相手に、1年生エースの程野賢一が好投。犠打や機動力を絡めた攻撃もさえ、11―3で快勝した。森は「部員はみんな仲が良かった。気持ちを一つに戦えた」と全員野球を強調する。

 決勝は池田に1―4で敗れたものの、初の四国大会進出を果たした。四国大会では1回戦で強豪・明徳(高知)に力の差を見せ付けられ0―11で完敗。快進撃を続けてきたナインにとっては、全国クラスの壁にはね返される苦い結果となった。

 この後、春の選抜大会出場が確実視されていた池田の推薦辞退で、地元では初の甲子園出場に期待が高まったが、選出されたのは県大会3位の徳島商だった。柳本は「まだ県外の強いチームと戦える力はなかった」と振り返る。それでも甲子園を懸けた貴重な戦いを経験し、聖地への距離をまた少し縮めた。 (敬称略)