県秋季大会で力投する富岡西のエース土肥。四国大会でも好投した=1994年

 1994年秋、3度目の四国大会出場を果たした富岡西は、翌春に全国優勝を果たす観音寺中央(香川)をあと一歩まで追い詰めた。四国大会では初出場の83年に明徳(高知)、2度目の87年に宇和島東(愛媛)に大敗していただけに、実力校に迫る意義ある一戦となった。

 93年春、森影浩章(55)=徳島市中昭和町=が富岡西の監督に就任した。選手時代に徳島商で甲子園出場を果たし、日体大でプレー。90年には那賀を四国大会4強へ導き、若くして指導者としての手腕を発揮していた。森影は名門で培ったノウハウを注ぎ、チームを強化していく。「野球が好きな子が多く、いろんなことを吸収していった」と語る。後に立教大へ進み、東京六大学の選抜メンバーにも選ばれた川平伸也(41)=那賀町和食郷=は「富西から甲子園へ出たいと思って選んだ」と振り返る。

 森影は守備強化やサーキットトレーニングを取り入れた体力づくりなど、基本練習に時間を割いた。右腕エースだった土肥誠一(41)=阿南市見能林町=は「当時としては先端の練習をしていたと思う。内容の濃い練習だった」と話す。森影は「大学でも野球を続けてほしい」との思いから学業をおろそかにしないよう指導し、練習時間は2~3時間と短かった。

 早速翌年から成果が表れ、94年夏は4強入りを果たした。そして新チームとなった秋は県大会で決勝へ駒を進めた。鳴門工(現鳴門渦潮)に敗れたものの、徳島2位校として四国大会へ進んだ。

 初戦でぶつかった観音寺中央は、福留孝介(現阪神)のいたPL学園などを練習試合で破り、公式戦を含め30試合近く無敗を誇っていた。「意識はしなかった。打者一人一人に集中していた」。高校で横手投げに転向した土肥は、スライダーやシンカーを駆使して強力打線に立ち向かった。

 富岡西は一回に適時打で1点を先制し、六回にも2点を加えてリードを広げた。主砲の川平は「相手の前評判は高かったが、うちのペースで試合を進められた。土肥の投球もうまくはまってくれた」と回顧する。

 土肥の粘りの投球で九回2死まで1点をリードしていたが、観音寺中央もそのままでは引き下がらなかった。土壇場で3―3に追い付かれ、試合は延長戦へ。最後は196球を投じた土肥が十三回に力尽きた。川平は「もう1点ダメ押しできていれば」と今でも悔しさがよみがえる。

 四国大会初勝利はならなかった。だが、全国レベルの相手でも自分たちのやるべきことができれば十分に戦える手応えをつかんだ富岡西。文武両道をモットーに甲子園を目指せるチームとして、進学を希望する中学の有望選手も増えていった。(敬称略)