長い間、徳島県民の記憶の底に埋もれていた太平洋戦争の傷痕に、触れたような気がした。

 1945年7月4日の徳島大空襲では、米軍の爆撃機が投下した焼夷弾が徳島市の中心部を焼き払い、約千人の市民が犠牲になった。

 大規模な空襲であり、体験者も多いことから、さまざまな形で語り継がれてきた。

 ほかにも、県内では空襲によって少なくとも15カ所で人的被害が発生し、217人の死者が出ていたことが、県警察史や徳島新聞の取材などで分かった。

 終戦から72年を迎え、当時の状況を知る人が少なくなる中で、掘り起こされた事実である。今こそ、空襲についての証言を書き残し、後世に伝えていかなければならない。

 徳島大空襲以外では、7月30日に起きた阿南市那賀川町の那賀川鉄橋の空襲が、体験者たちの証言によって、語られてきた。子どもも乗っていた列車を米軍機が銃撃し、約30人が亡くなった。鉄橋には今も弾痕が残る。

 人的な被害がさらに大きかったのは、6月22日の徳島市秋田町一帯への空襲だ。米軍機が秋田町、伊月町、鷹匠町などに5発の爆弾を投下し、123人が犠牲になった。

 3月から終戦間際の8月にかけて徳島、鳴門、小松島、阿南、吉野川、美馬の各市、藍住、松茂、海陽、那賀の各町で、空襲があったことが判明している。

 地元では知られた事実であっても、県民が広く共有していたとは言い難い。

 戦後、悲惨な戦争体験を語りたがらなかった人は多い。時間の経過とともに、戦時中の記憶の中に埋もれてしまうのは、無理のないことだ。

 ただでさえ空襲に関する史料や写真が乏しい中、体験者の証言は大きな頼りになる。

 県内の空襲をまとめた記事を受けて、読者からは貴重な情報が次々に寄せられた。関心の高さをうかがわせる。

 空襲の脅威は、遠い過去のものではない。北朝鮮は大陸間弾道ミサイル(ICBM)を日本海に向けて2回も発射して、緊張を高めている。核とミサイルをもてあそぶような挑発が、偶発的な事態を誘発しないか心配だ。

 国際社会を挙げて、北朝鮮の暴発を食い止めることが大切である。

 戦後、日本は平和主義をうたう憲法の下で、武力を排した外交解決に専念してきた。

 平和を築くためには膨大な労力を要するが、戦争で崩壊させるのは一瞬だ。その教訓を次の世代に伝えるのは私たちの責務である。

 古里に深い爪痕を残した空襲は、戦争の悲惨さを肌で学ぶための教材になる。

 お年寄りが子どもたちに空襲体験を語り、戦争の愚かさを共有することで、平和の礎を築きたい。

 終戦記念日のきょう、徳島市など全国各地で追悼行事が行われる。犠牲者の冥福を祈り、永遠の平和を誓う。