月の夜、雁は小枝をくわえて渡ってくる。疲れたら海に浮かべ、羽を休めるのだという。津軽の外ケ浜に着けば、これから旅は陸の上。枝を浜に残し、さらに南へ向かう

 春、雁は再び浜に現れる。枝を拾って北へ戻るのである。飛び立っても、浜にはまだ枝が残っている。不幸にして、命を落とした雁の数だけ。土地の人たちは、これを集めて風呂を沸かし、供養した

 50歳以上の人ならば、ウイスキーのコマーシャルを思い出したかもしれない。春の季語「雁風呂」には、こんないわれがある。ちょっと切ないお湯である。既に江戸の歳時記に見える。雁のくだりは当然、事実ではない

 凡人にはただの木切れ。それを趣のある物語に織り上げた、いにしえの詩人の歌心。科学者のひらめきも、これに近いものがあるのだろうか、と想像する

 目の付けどころが違う。そこまでは同じでも、詩人との絶対的な差は、科学的な事実だけで物語を組み上げる点にある。徳島大で講演した田中啓二・東京都医学総合研究所長は「大志を持って持続的に研究を行うことが成功につながる」と学生を激励した

 地道な基礎研究を徹底的に続け、物語を鍛えた人だ。最終章が本県2人目のノーベル賞でもおかしくない科学者である。失礼ながら、若くも、かわいらしくもない。業績の評価に狂いはなかろう。