事に当たって、人は二種類に分かれる。とことん闘う人と、これも運命と受け入れる人と。高松市の国立療養所・大島青松園で生きた、この人の場合は後者である
戦後すぐに入所した。家族も故郷も、関係全てを断ち切って。正確に言えば、断ち切らされて。でないと差別や偏見、不幸の渦がどこまで広がるか。ハンセン病は、そんな病気だった
顔に後遺症が出た。視力も失った。それでも、事有るたびに口にした。「感謝です」。気取りのない短歌に、人柄がよく表れている。<つらきことあまたあれどものりこえて生かされて来し今日の幸せ>(東條康江、82歳)。晩年、古里とのつながりもよみがえった
「慈しみ深き…」で始まる賛美歌の312番は、背負った重荷を下ろせるはずだ、と続く。意識をなくす前、夫が歌いかけた。「聞こえたか」。入所者の典型ともいえる一生は、こんな言葉で閉じた。「聞こえた」
最初は数人だった。国の隔離収容政策と立ち向かう人がいなければ、歴史は変わらなかった。東條さんだって闘った。屋島の先、療養所のある小島で、与えられたもう一つの人生をどう生きるか。この問いと格闘しなかった入所者はいない
きのう、もう一人の訃報を聞いた。ハンセン病回復者の平均年齢は80代半ば。大島青松園の徳島県出身者は、20人を切った。