こんな詩を思い出した。<何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。/動物園の四坪半のぬかるみの中では、/脚が大股過ぎるぢやないか。/頸があんまり長過ぎるぢやないか。/雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。>

 詩人高村光太郎の1928年の作品「ぼろぼろな駝鳥」だ。草原を疾駆すべきダチョウがみじめな姿で見せ物になっている。人間のエゴの犠牲として

 21世紀の今、問題にされたのは日本の水族館のイルカの入手法だ。和歌山県太地町の追い込み漁が世界団体から「非人道的」ととがめられ、日本協会は入手禁止を決めた。欧州ではイルカショーが虐待に当たるとの観点から施設数が減少。人工繁殖が主流だという

 ところで、ブラジルには人とイルカによる魚の追い込み漁があるそうだ。浅瀬で網を持つ漁師たちの方へイルカが魚を追い込んでくる。イルカにも生きるための都合があるわけだ。日本にも固有の漁法があり、太地の人たちには生活権がある。欧米から一律に「ノー」を突き付けられても困るのだ

 光太郎の詩はこう結ばれる。<人間よ、/もう止せ、こんな事は。>。動物のためには、捕獲も展示もやめるに越したことはない。だが、娯楽、生き物の勉強、子どもの情操教育など人間にも都合がある。各国の事情を踏まえ、より良い在り方を考えたい。