謝罪を求められ、どこか鬱々(うつうつ)とした気分になるのは、それが70年も前に終わった戦争のことだからだけではなくて、未来にも関わることだからだろう。つまり、われわれはいつまで「敗戦国」であり続けなければならないのか、といった憂鬱(ゆううつ)である
これまた憂鬱ではあるが、ある面では永遠というほかない。歴史は逆戻りできないのだから、先の大戦の敗者という事実は変えようがない。一時期とはいえ、国の方針を誤ったつけは、かように大きい
被害国との「和解」が進んでいれば「清算」もできよう。残念ながら、そうはなっていない。歴史が政治の道具として機能する間は和解も難しかろう
そんな中、安倍晋三首相が発表する戦後70年談話に「謝罪」を盛り込むかどうか、取り沙汰されている。談話を検討する私的諮問機関「21世紀構想懇談会」の議論はかなり濃密だ。議事録は官邸のホームページに掲載されており、一読をお薦めしたい
戦後、指折りの豊かな国をつくってきた自負は首相ならずともある。いい国なんだよ、だから、未来志向の談話にしたいとの思いも分かる
ただし往々にして、思いが不正確にしか伝わらない、そんな世界が注目している談話である。裏目に出るようでは意味がない。気分を排し、その効果を第一に考えれば、おのずから要点は定まってこよう。