口数の少ない人だった。遠出を嫌った。「なぜですか」と聞いたら、こんな答えが返ってきた。「一度、長い、長い旅をしたから、もうたくさん」。義母は満州からの引き揚げ者だ
1945年8月9日、ソ連がソ満国境を侵した。15日、終戦の詔勅。農地も何も全てを捨て、一家の逃避行が始まった。12歳、まだ小学生だった
避難民の列は、果てがない。中国の農民が道端で大声を上げていた。「子どもをくれ、子どもをくれってね」。ひょっとすると、苦難の道、小さな命だけでも助けてやろうといった気持ちからかもしれない。ひょっとすると、働き手がほしかっただけかもしれない
銃を突きつけられたこともある。きつく握った手を、もし離していたならば…。厚生労働省が認定する中国残留孤児約2800人のうち幾人かは、同じ列の中にいたはずだ
故郷の広島に戻るまで、どれほど歩いたことか。そもそも、一家が大陸へ渡ったのは山深い貧しい村で食い詰めたから。戦後も釜のふたの開かない日々が続いた。中学卒業を待ちかねて紡績会社に就職し、やがて結婚した
国策農業移民・満蒙開拓団の団員総数は約30万人に上る。再び日本の土を踏めなかった人が大勢いる。70年前のあの時、義母の目に何が映ったか。二度と帰らぬ旅を見送る前に、もっと聞いておくべきだった。
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