長崎市橋口町、山里国民学校(現・山里小学校)の児童数は1945年6月時点で1581人。70年前のきょう、朝刊が配達される時間帯には、まだ、それだけの子どもたちが生きていたはずである
プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を搭載したB29爆撃機「ボックスカー」は、視界不良のために本来の目標だった北九州・小倉を諦め、次の目標へ向かう
長崎市が数千度の熱線と猛烈な爆風、放射線にさらされたのは、午前11時2分のことだ。爆心地は現在の平和公園。山里国民学校から南へ約600メートルの距離にある。夏休み中の児童は自宅などで被災、全校の8割に当たる約1300人が死亡した
先月、20年ぶりに合同慰霊祭があった。かつての児童は「多くの学友が、誰にもぶつけようのないつらさや憎しみを抱えて亡くなり、生き残った者も放射能の不安とともに生き延びた」と語った。悲劇を昔話として風化させてはいけない、とも
あの日から70年。当時の1年生も70代の後半になる。平和な時代を生きてきた私たちは、被爆者の肉声を聞くことのできる最後の世代だ。経験の糸をつなぎ続けなければ
児童の体験記「原子雲の下に生きて」(アルバ文庫)は序に記す。<げんしばくだんは、ひどかバイ。痛かとバイ。もう やめまっせ!>。声なき子らの叫びでもあろう。