大嘗祭で、阿波忌部が織った麁服を納めることについて記した「延喜式」の記述。延喜式では麁服を別格に取り扱っているという

 大嘗祭の祭祀具とされる大麻の織物「麁服(あらたえ)」に関する史実を知る人は多くはない。「阿波忌部氏や麁服については漠然と知られている程度でしょう」。四国中世史の研究家で、県埋蔵文化財センター理事長の福家清司さんは、由来などの研究に取り組む一人だ。

 
三木家が麁服を調進する「御殿人(みあらかんど)」を務めていたことを示す1332(正慶元)年の同家文書

 麁服づくりや、調進に関わってきた阿波忌部にまつわる文献、史料は幾つかある。
 福家さんによると、阿波に忌部が実在した事実を記す最古の史料が、奈良の正倉院が保管する目の粗い絹布「?」だ。

 布の表面に、墨書きでわずか1行だが「麻殖郡川島少楮里に住む戸主、忌部為麻呂が732(天平4)年10月、黄色の?を調(繊維製品の税)として壱疋納めた」と記されている。疋は布を数える単位らしい。

 奈良の平城宮跡で見つかった木簡にも、同じ頃に川島郷少楮里に住む忌部足嶋が、庸(米などの物品税)を納めた事実が書かれている。

 福家さんによると、当時の麻殖郡は、呉島郷が旧鴨島町、川島郷は旧川島町、忌部郷は旧山川町山崎と忌部山、射立郷は旧山川町瀬詰と川田だ。

 阿波忌部と麁服について書かれた文献も二つある。それが、阿波忌部の伝承を記す「古語拾遺」(807年)と、古代から平安時代初期に行われた宮中の年中儀式や制度をまとめた「延喜式」(927年)。

 大嘗祭は一般的に7世紀後半の天武天皇、または持統天皇の時代に整備されたとされる。二つの文献には阿波忌部の麁服が大嘗祭に供えられた経緯が記されている。

 特に延喜式では麁服は別格の取り扱いという。「皇室から依頼があって納める調進の品であることが分かる。また麁服と違う目の粗い布やアワビ、ウニなどの海産物を麻殖郡や那賀郡が献上する、と記している」

 福家さんは平安、鎌倉時代に政治に携わる公家が書いた日記にも注目する。

 その一つが右大臣藤原実資の「小右記」(1012年)。「荒妙(麁服)御服は去年織って進上したので、再び織ることはできないと阿波から言ってきている」との趣旨が書かれているという。

 さらに、内大臣藤原忠親の「山槐記」(1184年)には「四国に平家がいて交通が絶えている。どうするのか」と気をもむ記述がある。源平の争乱によって大嘗祭の円滑な遂行が妨げられたとみられる。しかし、続く記述から「朝廷は旧来通り、阿波の荒妙の準備に努めたことが確認できる」そうだ。

 徳島県内にも史料が残っている。阿波忌部の子孫とされる美馬市木屋平貢の三木家が所蔵する文書14点(県指定文化財)だ。中世の麁服調進について依頼から受け渡しまで一連の手続きを示す国内唯一の史料とされる。

 この史料は中世に書かれ、13~14世紀の三木家の先祖らが亀山、後伏見、花園、後醍醐、光厳、光明の天皇6人に麁服を調進した事実が記されている。いずれも趣旨は「前例の通り麁服を織るように。麁服を受け取るため、天皇の使者である勅使を派遣するといった内容」だ。

 福家さんは「分かっていない点もあるが、阿波忌部の麁服調進は多くの史料で裏付けられる」と締めくくった。