麁服調進の中断について、歴史や理由を説明する三木信夫さん=吉野川市山川町

 皇室で最も大切な祭礼が大嘗祭だが、確実な記録がある天武天皇以降、戦乱による政情不安などで計十数代の天皇の即位後、大嘗祭は行われていない。麁服(あらたえ)の調進も行われなかった時期がある。

古くから旧山川町山崎地区の忌部山にある山崎忌部神社。11月の大嘗祭に向けて、麁服を織ることになっている=吉野川市山川町

 大嘗祭が中断されたのは中世から江戸時代前期にかけて、政情が不安定だった時期だ。美馬市木屋平貢の三木家28代目当主の信夫さん(82)が、大嘗祭と麁服にまつわる歴史を語る。

 三木さんによると、大嘗祭は1466(文正元)年の後土御門天皇を最後に、天皇9代にわたって挙行されなかったという。67年には応仁の乱が勃発するなど国中が混乱していた時代だった。

 徳島出身とされる戦国武将三好長慶のほか、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが天下を争った時代だ。

 ようやく大嘗祭が復活したのは、5代将軍徳川綱吉が統治した江戸時代の1687(貞享4)年。東山天皇の大嘗祭だった。実に221年ぶりのことだが、次の中御門天皇では再び中断された。

 平和な江戸時代になっても大嘗祭が行われなかったのはなぜか。

 その理由を「幕府が力を誇示し、朝廷に対して予算を出したがらなかったのだろう」と、三木さんは推測する。

 その後、大嘗祭は1738(元文3)年の桜町天皇で再復活し、現在まで続く。当時、8代将軍徳川吉宗は朝廷の儀式を尊重し、幕府の権威も高めようとしたとされ、祭祀の復活に力を入れた。

 とはいえ、江戸時代の大嘗祭では阿波忌部は麁服に関わっていない。三木さんが「阿波忌部の調進は少なくとも1338(暦応元)年の光明天皇以来行われなかった」と言う。

 そのことを裏付けるのが国学者荷田在満の大嘗祭の解説書「大嘗会便蒙」(1739年)だ。幕府が延喜式に記された通り、阿波忌部の麁服調進を復活させようとした事実もつかめる文献だ。

 復活を目指して、祭祀をつかさどる神祇官は徳島藩に対し、忌部神社の所在を調べるように求めた。しかし、徳島藩は「忌部神社は不明」と答える。このため神祇官は「忌部神社が不明なら、昔は多かった忌部の人も今は大方絶えた。他氏をもって阿波忌部の代わりとする」とした。

 結局、神祇官が育てた大麻で織物を作り、大嘗祭に供えられることになった。織物には阿波忌部の代わりに調進したことを示すため、「忌部所作代」と表示されたという。

 三木さんは調進の歴史を知ってもらおうと、約10年前から県内外で講演を続けている。一般の人たちだけではなく、伊勢神宮や明治神宮、全国各地の一の宮の宮司などの神職も対象に行ってきた。

 今年2月11日には、吉野川市山川町の住民がつくる阿波忌部麁服調進協議会主催の講演会で講師を務めた。

 講演の中で、三木さんは伝承の難しさと大切さも語る。「大嘗祭は数十年に一度しかない。いったん調進が途絶えてしまえば、現場での作業や技術が分からなくなる。そうなると昔と同じやり方で行うのは困難になる。伝承に力を入れていきたい」。