
阿波忌部による大嘗祭での麁服(あらたえ)の調進が復活したのは、1915(大正4)年11月14、15日に行われた大正天皇の大嘗祭だった。1338(暦応元)年の光明天皇以来、577年ぶりのことだった。
携わったのは、美馬市木屋平貢の三木宗治郎(故人)。現当主三木信夫さん(82)の祖父に当たる。
「長い間、中断したにもかかわらず復活したのは奇跡。近代の大礼史上、大きな意味を持つ。それほど復活運動は有意義だった」と言うのは、皇室制度に詳しい京都産業大の所功名誉教授。
所さんは今年2月18日、徳島銀行生涯学習振興財団が徳島市内で開いた講演会で、明治30年代に始まった復活運動に触れた。
「宗治郎は、家にある古文書を調べているうち、阿波と皇室を結ぶ伝統が絶えた事実を驚き、嘆いた。やがて復活の大事業に取り組む決意をした」
所さんは1908(明治41)年、東宮殿下(後の大正天皇)が本県に行啓した際、宗治郎が木綿の織物などを献上したことを紹介した。麁服調進の復活への理解を得るため、三木家の由緒書きや調進の由来を記した冊子を作っていたエピソードも披露した。
復活に尽力したのが三木家の近くで生まれた漢学者の山田貢村だった。宗治郎の刎頸の友だったという。貢村は宮内省の「御用掛」として、明治天皇の記録を編さんし、宮内省上層部に麁服調進を認めてもらえるよう訴えた。
宗治郎は、徳島市の忌部神社宮司で国学者の齋藤普春にも協力を仰ぐ。小松島市出身の歴史学者喜田貞吉の意見も聞いた。その後、当時の県知事とともに大礼使当局へも復活を請願した。
運動は奏功し、大礼使から三木家による麁服調進が決定した趣旨の連絡が、県を通じて宗治郎に届いたのは1915(大正4)年7月21日。宗治郎は感激し、手記にこう書いた。
「ここにおいて中世以来数百年間、廃絶したる本県よりの麁服調進の旧儀は復興した」
だが、困ったことがあった。当時、三木家を含む木屋平全域で大麻は栽培していなかった。大嘗祭は4カ月後に迫っていたため、関係者は対応を急いだ。協力してくれたのが、南の尾根を越えた那賀町木頭北川の住民だった。
木頭村誌には当時の事情が記されている。
「北川から大麻を献納したのは村民の大きな誇り。宇井ノ瀬で栽培した大麻を北川神社(八幡神社)で皮をはぎ、舟谷(船谷川)でさらした製品を収穫。槍戸越で木屋平へ送り、出向いた北川の女性3人と木屋平の女性が糸を紡いだ」
宇井ノ瀬では、こん包用として使うため、大麻を栽培していた。100年余り前、木頭の大麻がなければ復活の奇跡は起きなかったといえる。
所さんは「さまざまな運動によって三木家による麁服調進の歴史が認められ、地域住民の力があったから復活が成功した」と評価する。そして麁服調進は一度きりではなく、昭和、平成へと受け継がれるようになった。
[上]大正天皇の大嘗祭に調進された大麻の皮剥をしたとされる八幡神社。横を流れる船谷川でさらされた=那賀町木頭北川[下]大正天皇の大嘗祭で麁服を調進するようにと、1915年7月21日付で県から三木宗治郎に送られた文書