大正天皇の大嘗祭で、大麻の織物「麁服」の調進を復活させた美馬市木屋平貢出身の三木宗治郎(故人)は、1928(昭和3)年11月の昭和天皇の大嘗祭でも麁服を調進し、完全復活を遂げる。
宗治郎はこの時、不慮の出来事に備え、皇居に納めた麁服と同じ麁服を控えとして残していた。その一部が県立川島高校(旧麻植中学校)の校旗に生まれ変わった事実は、県内でもほとんど知られていない。
川島高校は1925(大正14)年の開校。しかし、校旗がなかった。昭和天皇の大嘗祭が終わって3年が過ぎた頃、卒業生が「校旗を作ろう」と声を上げ、川島町長だった宗治郎に相談した。宗治郎は、自宅に保管していた予備の麁服を快く譲った。
「至誠無息」の校訓が書かれたその校旗は、木箱に収められ、同校に大事に保管されている。
「純日本風の縦長の旗。標準的な形の校旗と違うため、注目されたと聞いている」と武田伊織校長。現在使っている校旗が1957(昭和32)年にできてからは麁服でできた校旗は「校宝」の扱いに。入学式や卒業式など特別な日だけ掲げられ、由来や特徴が紹介される。
その頃、同校は傷んだり失ったりすることを心配して、レプリカも作ることにした。国語、書道教諭として21年間勤め、当時の事情を知る武市鳴雲さん(78)=吉野川市鴨島町牛島=によると、書道がうまい男性職員が書体をまねて仕上げた。このレプリカも同校に残っている。
校宝となった本物の校旗は例外的に、校外で掲げられたことがある。サッカー部が1976年、全国高校選手権大会に初出場を果たした時の開会式だ。「このときが最初で最後だろう」と武市さんは振り返る。
昭和の大嘗祭に供えられた麁服の「兄弟」ともいえる校宝には物語がもう一つある。
武市さんは「至誠無息」の風格のある墨書きを指さしながら、中国の古典「中庸」の言葉で「この上ない誠の心をもって生涯を貫きなさい、という意味だ」と話してくれた。
文字を書いたのは日露戦争時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎。校旗を望む声が出た頃は80歳余り。鹿児島県出身の東郷は神格化され、国民的英雄だった。軍令部の許可なしでは会えず、東郷は全ての揮毫を断っていた。
川島高校と東郷の縁を取り持ったのは、三木家の麁服調進の復活運動を率いた美馬市木屋平出身の山田貢村。「至誠無息」の4文字を選んだのも貢村だ。
貢村は、東郷を知る芳川顕正を頼った。芳川は吉野川市山川町出身で文部、司法大臣、皇典講究所長などを歴任し、かなりの有力者だった。さらに、東郷の妹も力を尽くし、揮毫は実現する。
1933(昭和8)年2月20日、川島駅に東郷直筆の校旗が着くと、生徒全員が出迎えた。
現在も川島高校の校章は麻の葉がかたどられ、校誌の題は「あらたえ」。校歌には「忌部の郷」という歌詞が出てくる。この地が阿波忌部の里であるという誇りを、こんな所にも垣間見ることができる。
武田校長は、同窓会副会長も務める武市さんと口をそろえ、「大嘗祭がある今年は川島高校にとって特別な年。多くの人に麁服や阿波忌部のことを知ってほしい」と話した。