言葉一つで印象は変わる。例えば「徘徊(はいかい)」である。とりあえず「一人歩き」とでも言い換えてみる。すると、この事故、かなり違った風景が見えてこないだろうか

 認知症の男性患者は、高齢の妻がまどろんだわずかの間に家を出た。そして電車にはねられて亡くなった。事故をめぐる最高裁の画期的な判断と残る課題は、他でも多く語られており、ここでは触れない
 
 自省を込めて書いておかねばと思うのは、認知症患者へ向ける視線が偏っていなかったか、ということである。福祉に詳しい知人からのメールで、遅ればせながら気がついた
 
 事故は男性が徘徊中に起きたと本紙を含めて大方のメディアは報じた。徘徊といえば、訳も分からず歩き回るといった印象がある。それこそ偏見で、徘徊には必ず訳があるとメールには記されていた
 
 家族によると、男性は事故前にも2回いなくなったことがある。いずれも生まれ育った実家の方へ向かっていたそうだ。今回も目的があって歩いていたはず。「徘徊は、一人で外出したものの、道が分からず帰れなくなったに過ぎません」
 
 2025年には、高齢者の5人に1人が認知症患者と予想されている。管理監督が必要ないとは言わないが、一人の人間の豊かな老後に軸足を置いて問題と向き合えば、別の答えも見えてくるように思うのである。