巨大な伏魔殿に響きわたるかのような中低音の和音の連打…。第1楽章の冒頭から暗く激しい感情が提示される。ベートーベンのピアノソナタ32番だ

 よく知られているのは14番「月光」や23番「熱情」などだが、最後の32番を最高傑作に挙げるピアニストは少なくない。クラシック音楽の中で頂点と言い切る評論家もいるほどである

 4年前に亡くなった吉田秀和さんも絶賛した一人。著書「私の好きな曲」(新潮文庫)の中で「きずがひとつもないというだけでなく、その中で、ある一回限りのことが実現された、奇蹟(きせき)のような出来栄え」と評する

 特徴は、構成する二つの楽章の鮮やかなコントラストだ。暗闇や苦悩をイメージさせる第1楽章に対し、第2楽章は光明や救いを感じさせる清らかで繊細な旋律。全体として、劇的でありながらも高い精神性が心の奥底にまで響く。歓喜を最後に歌い上げる第九交響曲との共通性も見いだせよう

 ベルギーで同時テロが発生し、空港や地下鉄で大勢の人が爆発の巻き添えで死傷した。自らの主張のために、何の罪もない人の命を奪う所業は卑劣の極みだ。しかし、同様のテロは各地で後を絶たない

 全人類が第2楽章の境地に到達することをベートーベンは願ったはずである。没して26日で189年となるが、世界はまだ第1楽章を奏でている。