小説「名人」は、作家川端康成が観戦記者として間近にした二十一世本因坊秀哉(しゅうさい)の引退碁の記録である。1938年12月4日まで、半年にも及んだ戦いで命をすり減らした秀哉は、この1年余り後、66歳で亡くなった

 小説は、一芸に執して現実の多くを失った「不敗の名人」への限りない尊敬の念に満ちている。芸としての碁の品や味への郷愁も漂う。まるで碁を解さないが、こんな表現に出合えば、黒と白の世界には相当の美学があるのだろうと想像した

 <黒が手堅く押して来るのに従って、水の流れ雲のゆくように打ちながら、下辺にゆったり白模様を描いて、いつとなく微妙な勝負になっているのは、名人の円熟の境であったろうか>(「名人」新潮社)

 井山裕太碁聖が七大タイトル同時制覇を果たした。棋聖、名人、本因坊、王座、天元、碁聖に十段。インターネット対局で鍛えられ12歳でプロとなった新時代の天才が成し遂げた、前人未到の偉業である

 抜群の読みと、前例や常識にとらわれない独創性が武器だそうだ。次は世界戦で、席巻する中国、韓国勢の打破を、と期待も膨らむ

 「囲碁には無限の可能性がある」と井山碁聖は言う。新境地に入った勝負師もまだ26歳。盤上に、人工知能には決して行き着くことのできない、新しく美しい物語を創造してもらいたいと思う。