聖火をともした一人の男が大観衆の拍手に包まれた、あの光景がよみがえる。トーチを持つ手は病気で小刻みに震えていた。1996年のアトランタ五輪。米国社会と男の和解の儀式だったのかもしれない

 人種差別と闘ったボクシング元世界王者、ムハマド・アリさんが逝った。「チョウのように舞い、ハチのように刺す」。華麗なボクサーだった。18歳で出場した60年ローマ五輪で、いきなり金メダルを獲得している

 かつての米国社会は黒人であれば、メダリストにも白人と同じ席を与えなかった。レストランへの入店を拒否され、抱いて寝るほど大事にしていた金メダルを川に捨てた。リング外での闘いを本格化させたのは、それからだ

 黒人解放運動で力のあったブラック・ムスリムに共鳴し、イスラム教に改宗。本名の「カシアス・クレイ」も捨てた。天才プロボクサーで公民権運動の英雄、「アリ」の誕生である

 世界タイトルが剥奪されるのを知りながら「ベトコンは俺をニガー(黒人の蔑称)とは呼ばなかった」とベトナム戦争の徴兵を拒否した。反体制的な言動と大口で、差別のまん延する社会を挑発し続けた

 金メダルから半世紀余り。格差は広がり、人種差別の絡んだ事件もいまだに絶えない。変わったことと、変えられなかったこと。少し気が早い黄泉への旅路である。