ちょうど1年前、沖縄の遺骨収集のことを書いた。その現場の一つ、糸満市喜屋武束辺名(きゃんつかへな)の壕(ごう)のそばに立っている。沖縄戦で日本軍の組織的抵抗が終わったとされる1945年6月23日前後まで、戦闘が続いた地域である

 壕は崖下に口を開けていた。遺骨収集ボランティア具志堅隆松(たかまつ)さんによると、軍民100人余りが潜んでいたという。岩は黒ずんでいる。火炎放射器で奥まで焼かれたのである

 「これは脚の骨ですね。こっちは子どもの骨かなあ」。下あごもあった。若者だろう、奥歯まで虫歯のない歯がそろっている。「ほら、これも骨片」。知らずに踏んでいた。噴き出す汗が止まらない。「私たちは、亡くなった人の上に生きているのです」

 米軍の手りゅう弾の部品、ライフルの薬きょうも。繰り広げられた激しい戦いを物語る。ガジュマルの林に分け入れば、沖縄には、こんな場所がいくらでもある

 「株式会社高木商店」と裏面に彫られた腕時計、「宮城」の名のある万年筆も見つかった。71年前の夏、散乱する遺骨の主は確かに生きていた

 今春、国はようやく推進法を整備し、遺骨の身元確認に重い腰を上げた。「無名戦没者として火葬しておしまい、ではおかしい。遺骨には家に帰る権利がある。国には返す責任がある」。具志堅さんは、これからも訴え続けるつもりだ。