広島市の平和記念公園の北端に、円墳のような土盛りがある。頂点に石塔が据えられている。原爆供養塔という。被爆直後、数え切れない遺体がここに運ばれ、火葬された

 地下には、引き取り手のいない約7万人の遺骨が眠る。「夢でもいい、死者の言葉が知りたい」。体の自由が利く間、毎日のように供養塔を訪ねては、掃除をし、眠る遺骨の遺族を捜した。「墓守」と呼ばれた佐伯敏子さんは原爆で母親ら親族13人を亡くしている。「広島に年はないんよ」

 1945年8月6日。それを境に、もうすぐ4歳の誕生日だった三輪車のぼくも、動員学徒として勤務先で被爆した15歳の少女も、再び年を重ねることはなかった。一瞬の閃光(せんこう)が、約14万人の未来を奪った

 平和公園は、かつての市街地の上にできている。「ヒロシマ読本」(広島平和文化センター)によると、建物疎開で立ち退きも進んでいたが、被爆当時にはまだ、店舗や住宅が700軒余りあった

 71年前の朝も生活の音が響いていたはずである。2600人以上の暮らしが、ここで壊滅した。現職米大統領として、初めて広島を訪問したオバマさんに、犠牲者の思いは届いただろうか

 いまだ遠い核兵器廃絶の道。止まったままの時計を動かさないと。せみ時雨降る平和公園の木立で耳を澄ませば、そんな声が聞こえてくる。