大阪外国語学校(現大阪大外国語学部)でスペイン語を学んだ。作家の故司馬遼太郎さんはモンゴル語、一級下になる。卒業を待たず海軍予備学生に志願した

 「いずれはお国にささげる命。それが常識だった。徴兵でやぼったい陸軍に行かされるよりスマートな海軍、それも大空を駆けてみたかった」。元徳島白菊特攻隊員の田尻正人さんは理知的な話し方をする

 1945年5月25日午前5時、鹿児島県串良の前進基地。滑走路でエンジンを回し、飛び立つ合図を待った。搭乗するのは練習機の白菊。命は惜しくなかったが、どうせなら戦闘機で華々しくいきたかった。第一、鈍重な白菊で敵機をかいくぐり、5時間先の沖縄にたどりつけるわけがない

 「出撃命令を聞いて? うれしくなかったですよ。一升瓶2本とたばこをくれたけど、死を前に飲めるものじゃない。貧乏な家から大学にまでやってもらったのに、長男の務めが果たせなかった、なんて考えてましたよ」

 結局、この日の攻撃は中止され、8月16日を決行日とする再度の出撃命令も敗戦で幻となった。2度、命を拾った。生き残った者の使命と信じ、93歳になった今も、頼まれればどこへでも講演に行く。「書物では伝わらないことがあるでしょ」

 徳島白菊隊の56人が特攻で死んだ。20歳になるやならずの若者ばかりだ。