「唯々諾々」は人のいいなりになるさまをいう。中国の思想書「韓非子」にある。主人がまだ何も命じてないのに、様子や顔色をうかがって「はいはい」という、道化師たちの処世術だ
史書「史記」には同じ言葉を使った別の成語が見える。「千人の諾々は一士の諤々(がくがく)にしかず」。千人の家臣の「はいはい」は、一人の家臣の直言には及ばない
ただ、千人の諾々を喜ぶのが、今も昔も変わらない凡庸なお偉方の常である。会社で役場で学校で、政治の世界でさえ、おかしいとは思っても、そうは言えない空気がまん延してはいないだろうか。だったら危険である
だけど、こちらも生活があるからね、とのぼやきも聞こえてきそうだが、この移り変わりの激しい現代社会では、御身大事の事なかれ、道化師ばかりが目立つ組織など、いずれよどみに深く沈んでしまう。それが分かっていて、なかなか改められないのが、組織運営の難しさだ
三笠宮さまの「斂葬(れんそう)の儀」が営まれた。激動の昭和を体現されたような人生。戦中戦後と、毅然(きぜん)とした発言を続けられた生涯を振り返った時、対して自分はどうか、との問いが自然に湧いてくる
三笠宮さまが生きた昭和という時代は、今よりももう少し「一人の家臣」が多かった気がする。確かに男、あるいは女がいた。そう思えば、なおさら寂しい。