戦前活躍した評論家・三宅雪嶺が詠んでいる。<阿波人に相応(ふさわ)しからぬ二人かな>。一人は江戸後期、幕政を批判し大坂に兵を挙げた大塩平八郎、もう一人は岡本監輔(けんすけ)(韋庵・いあん)である
大塩はともかく、岡本は、その型破りな生涯ほどには知られていない。幕末、日本人で初めて樺太(からふと)(サハリン)全島を探検した漢学者。「相応しからぬ」とは心外だが、阿波人でなくとも並ぶ者の少ない、器の大きな人だった
今の美馬市穴吹町三谷、農家の出。郷土史家の故林啓介さんの労作、本紙連載をまとめた「樺太・千島に夢をかける」によると、懐に書物をしのばせて農作業をするほどの読書好き。各地の高名な学者の元で学ぶうち、北辺の事情を知る
アイヌの人々が暮らす日本領ながら、土地も資源もロシアに奪われていた。義憤を感じて樺太へ向かい、実情を調査し、幕府に開発を進言した
維新後、千島樺太交換条約で夢はついえた。東大講師などを務めたものの、北への思いは断ちがたく、53歳のとき、今度は択捉島を拠点に千島の開発に動く
日露戦争の行方に気をもみながら1904年、66歳で死去。先駆者として札幌市の北海道神宮境内にある開拓神社に、淡路の海運業者高田屋嘉兵衛らと共に祭られている。郷土の先人が足跡をしるした北方領土は来月、日ロ首脳会談の焦点となる。