関係の深かった百済の救援に、日本は朝鮮半島に軍勢を送り込んだ。663年、半島南西部の河口で唐・新羅連合軍と衝突する。白村江の戦いである。日本は大敗し、百済は滅亡した

 アジアの超大国の照準が、次は自分たちに向くかもしれない。当時の人々が感じた恐怖がいかに大きかったか、西日本各地に残る城跡を見れば、容易に想像できる

 福岡県太宰府市にある水城(みずき)は、高さ10メートル余りで、延長約1キロに及ぶ。岡山県総社市の古代山城・鬼ノ城(きのじょう)も唐の侵攻に備えたものとされ、遠く四国を望む標高400メートルほどの山上に約3キロも土塁が続く

 手近なところでは、高松市の屋島に復元された屋嶋城(やしまのき)が往時の姿を伝えている。日本書紀にも記述がある、瀬戸内ににらみを利かせるための山城だ。石積みを見上げると、古代の土木事業といっても、間に合わせ程度の規模ではないことがよくわかる

 北九州の守りに「防人(さきもり)」を動員したのも、白村江がきっかけだった。敗戦の衝撃は、現代でいえば、第2次大戦にも匹敵したのだろう。701年の大宝律令で、法的にも国の呼称を「日本」と定め、新たな国づくりにまい進する

 1300年以上前、国の将来を心配し、息を詰めて外国の動きを見守る人々がいた。アメリカ大統領選や韓国の醜聞の行方に気をもむわれわれと、変わるところはない。