山が空に接した部分を「山の端」という。空が山に接した部分は「山際」と呼ぶ。清少納言「枕草子」の観察眼に魅せられた。綿のような雪が降るという、まだ見ぬ内地への憧れも確かにあった

 戦後引き揚げてきた北島町で暮らす冨永勝さんは、徳島文理大の元助教授。祖父母の代に渡った日本統治下の台湾で生まれた。冨永さんのような「湾生」は20万人ほどいたとされる

 移民は国策だった。1910(明治43)年、国は北海道開拓で好成績を上げた徳島県で希望者を募り、台湾東部に最初の移民団を送り込む。開拓村は古里を流れる川にちなみ、吉野村と名付けられた

 一家は、現地の人が住む別の村で小さな店を開いた。だから、幼なじみは台湾人。先住民もいた。「差別感情がなかったとは言わないが・・・」。台南師範学校時代、内地から来た学生の鼻持ちならない優越感に、身の内にあった「台湾」が目覚めた思い出がある

 「心に国境はない。故郷は、他のどこでもない、台湾だ」。年が明ければ90歳。再び訪れることはできないかもしれない。にじむ涙の奥に映るのは、富士山よりも高い島の山、その山の端、その山際

 湾生の今を追った台湾のドキュメンタリー映画「湾生回家」が、徳島市のユーフォーテーブルシネマで上映されている。「うさぎ追いし」の旋律がぐっとくる。