10年ほど前、娘の手伝いで大阪に出たことがある。「山で生まれた者は、やっぱり山がええ。しばらくいて、逃げ帰ってきたわ」。つるぎ町貞光猿飼の西岡田節子さんは69歳。夫の治豈(はるき)さんと農業を営む

 「山の人、都会では、ええ歩かんぞよ。いつも山道を歩いとろ。段々じゃけ、そろそろ歩いとろ。脚がかじんどんじゃわ。平たんな所は、すっ、すっと行けんのじゃわ」。かじむとは、こわばるといったほどの意味らしい

 畑に案内してもらった。下り坂を、すっ、すっと行く治豈さんは76歳。その後を追っていて、足が止まった。気を抜くと転がり落ちそうな崖だ。ひと畝ひと畝、階段状に整えてある。秋になれば一面、白いソバの花に覆われるという

 先祖の入植から数えて150年になる。崩れる土を、かき上げかき上げ、山で暮らしてきた人々の、ここで生き抜く執念がしみこんだような農地である

 急傾斜地農法が残る県西の2市2町が「世界農業遺産」の国内候補地に選ばれた。伝統農法にやっと光が差したが、後継者不足に加え、サルやシカの食害など、維持には課題が多い

 農作業の合間に腰を下ろし、景色を眺めるのが好きという節子さん。「ほんまに、退屈することがない」。急峻(きゅうしゅん)な山々、はるか下には剣山へと続く一筋の川。山鳥が一声。もうすぐ、山桜が咲くそうだ。